未遂に終わったことについて
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「東條英機」の記事における「未遂に終わったことについて」の解説
東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の読売、毎日、朝日をはじめとする各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。 東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。
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未遂に終わったことについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 08:34 UTC 版)
「東條英機自殺未遂事件」の記事における「未遂に終わったことについて」の解説
拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった。 なぜ確実に死ぬ頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解もあるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説もある。また東條が自決を図る直前の写真では眼鏡を外しており、すでに死を覚悟していたのは確かだという指摘もある。 ロバート・ビュートーによれば、自殺のすぐあと、居合わせた外人記者の質問に東條は「わたくしは、はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」と答えたという。 東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。前者として太田尚樹は著書のなかで、東條は左利きであるため普段から道具を左手で扱っていたが、左手で自分の心臓を打ちぬくには角度が悪く引き金が引きにくいので、右手で引き金を引くことにしたが、注意深くしないと角度が浅くなり急所をそれる可能性があった。にもかかわらず、東條は「逮捕に来た米軍憲兵や報道関係者などが無礼な態度をみせるため、とっさに拳銃に手をかけ引き金を引いてしまったのだ」と後に主張するように、余裕を持って急所に狙えなかったという。これは東條は逮捕されるにしても事前に連絡が来ると思っていたところ、いきなり米兵が報道陣を引き連れて「トージョー出て来い」式にやってきたことに憤慨したからだという。 東條の秘書官だった赤松貞雄は、ロバート・ビュートーの著書をひいて「東条さんの心臓は細長く幅が狭かったばかりに弾はそれた」ことと「直に適切な処置ができた」ために生きのびたとしている。 額田坦は1977年刊の回顧録に、東條は自決ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという報告を聞いたと記している(後述)。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も、保阪正康は取材の結果偽書ではないかと疑念を記している(東條英機の遺言参照)。
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