有漢教員養成所開校から閉校までとは? わかりやすく解説

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有漢教員養成所開校から閉校まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:09 UTC 版)

有漢町」の記事における「有漢教員養成所開校から閉校まで」の解説

明治時代学校の先生なるには師範学校」に進まなければいけなく、有漢教員養成所ができるまで岡山県には岡山市に1校だけしかなかった。明治37年日露戦争若い人たちが出兵したため学校に若い先生がいなくなってしまった。村民は何とかしないといけないと考え村役場主導で、現在の有漢西小学校敷地内にあった農業補助学校教員養成所変えて教員増やすこととした。農業補習学校校長片山泰治郎が農業勉強のために作った学校だったが、入学する生徒少なかったことも影響していた。県議会議員佐藤一や上房郡内の多く有識者賛同をもらい、岡山県認可得て明治37年農業補習学校併設の有漢教員養成所現在の有漢西小学校の地に)が開校される至った教員養成所開校1年目生徒数は、男子31人、女子20人の43人。最初の10年間有漢村財政厳しかったため、運営自体厳しいものであった。そんな時代でも村民教育の灯を消してならない懸命に踏ん張った教員養成所次第岡山県内だけでなく全国的に知られていくようになった大正2年金岡九郎が有漢高等小学校校長として赴任し同じく教員養成所所長となった金岡九郎その後教員養成所専念して教員養成総力をあげていった財団法人にして学校経営のための資金多くの人から寄付してもらえるようにした。そこで学ぶ生徒たち授業料無料になった女子教育にも力を入れるため大正10年4月高等女学校開校した授業料負担したため、有漢村就学率は99.1%と病人除けば全員であった。有漢教員養成所評判全国広がり入学希望者が多くなり定員400名に増やした日本国内からだけでなく台湾から多い時で70人、朝鮮からも数名生徒受け入れていた。そしてこの年から裁縫化教員部(女子)も開設したため、敷地内には1000人以上の生徒溢れていた。校舎白亜校舎として新築され、洋風建築学校として岡山県内だけでなく日本全国注目されていた。昭和3年教員養成所高梁町現在の高梁市)に移転されるまでの25年間に、教員養成所卒業生3600人以上にのぼる。

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「有漢教員養成所開校から閉校まで」を含む「有漢町」の記事については、「有漢町」の概要を参照ください。

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