有漢教員養成所開校から閉校まで
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「有漢町」の記事における「有漢教員養成所開校から閉校まで」の解説
明治時代、学校の先生になるには「師範学校」に進まなければいけなく、有漢教員養成所ができるまで岡山県には岡山市に1校だけしかなかった。明治37年の日露戦争に若い人たちが出兵したため学校に若い先生がいなくなってしまった。村民は何とかしないといけないと考え、村役場主導で、現在の有漢西小学校の敷地内にあった農業補助学校を教員養成所に変えて教員を増やすこととした。農業補習学校校長の片山泰治郎が農業の勉強のために作った学校だったが、入学する生徒が少なかったことも影響していた。県議会議員の佐藤晋一や上房郡内の多くの有識者の賛同をもらい、岡山県の認可を得て明治37年、農業補習学校併設の有漢教員養成所(現在の有漢西小学校の地に)が開校されるに至った。教員養成所の開校1年目の生徒数は、男子31人、女子20人の43人。最初の10年間は有漢村の財政が厳しかったため、運営自体厳しいものであった。そんな時代でも村民は教育の灯を消してはならないと懸命に踏ん張った。教員養成所は次第に岡山県内だけでなく全国的にも知られていくようになった。大正2年、金岡助九郎が有漢高等小学校の校長として赴任し、同じく教員養成所の所長となった。金岡助九郎はその後、教員養成所に専念して教員養成に総力をあげていった。財団法人にして学校の経営のための資金を多くの人から寄付してもらえるようにした。そこで学ぶ生徒たちの授業料は無料になった。女子の教育にも力を入れるため大正10年4月、高等女学校を開校した。授業料は村が負担したため、有漢村の就学率は99.1%と病人を除けば全員であった。有漢教員養成所の評判は全国に広がり入学希望者が多くなり定員を400名に増やした。日本国内からだけでなく台湾から多い時で70人、朝鮮からも数名の生徒を受け入れていた。そしてこの年から裁縫専化教員部(女子)も開設したため、敷地内には1000人以上の生徒で溢れていた。校舎も白亜の校舎として新築され、洋風建築の学校として岡山県内だけでなく日本全国に注目されていた。昭和3年に教員養成所が高梁町(現在の高梁市)に移転されるまでの25年間に、教員養成所の卒業生は3600人以上にのぼる。
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