更始帝により誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 22:25 UTC 版)
「劉エン (伯升)」の記事における「更始帝により誅殺」の解説
その後、連合軍においては、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。結局劉縯は、分裂を避けるために、劉玄にその地位を譲った。こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、劉縯は大司徒に任命された。 劉縯は同年5月、宛を攻め陥とし、劉秀も昆陽(潁川郡)で新の主力部隊を殲滅した(昆陽の戦い)。これにより劉縯・劉秀兄弟の名声は高まり、更始政権の諸将は、恐れてその排除を企むようになる。まず、あるとき、更始帝が劉縯から宝剣を見せてもらう機会があったが、この時に繍衣御史として側にいた申屠建が、玉玦を示して劉縯を殺害するよう促した。しかし、この時の更始帝は決断できなかった。また、この事実自体も、劉縯の母の兄弟である樊宏が見ており、樊宏は劉縯に警告したが、劉縯は笑って受け流した。さらに、挙兵以来の劉縯の同志李軼が、更始帝に接近し始めているのを見て、劉秀が劉縯にもはや李軼を信用してはならないと諌めたが、これも劉縯は平然として聞き入れなかった。 そして、日ごろから更始帝に不満を抱いていた劉縯配下の勇将劉稷(劉縯の遠縁の親族)が抗威将軍への就任を拒否したため、更始帝が劉稷を逮捕し、処刑しようとする事件が起きた。劉縯はこれを止めようと更始帝の下に駆けつけたが、大司馬朱鮪と李軼がその殺害を勧め、劉縯を劉稷もろとも誅殺してしまったのである。 劉縯にはふたりの子がおり、長男の劉章と次男の劉興は、光武帝(劉秀)が政権を樹立した建武2年(26年)、それぞれ太原王(後の斉哀王)、魯王(後の北海靖王)に封じられた。建武15年(39年)、光武帝は劉縯に斉武王を追贈している。 なお、北海靖王・劉興(劉縯の次子)の庶子・劉復が臨邑侯に封じられ、その末裔は『三国志』で著名な劉備であると伝わる。さらに汝陽王の劉彦(劉御筆)は劉縯の末子と述べられている[信頼性要検証]。
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