明治期の試合記録
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1883年(明治16年)、山岡鉄舟との音信が復活する。翌1884年(明治17年)2月、山岡の要請により上京。公家の鷲尾隆聚の道場・明鏡館を預かり、山岡の道場春風館にも通う。3月7日、宮内省済寧館で河田景与、渡辺昇、上田馬之助らと立合う。3月14日、鍛冶橋にある警視庁巡査本部道場で開かれた撃剣世話掛の大会に飛び入り出場。浪四郎の強さに一同感服して上座に請じた。済寧館剣槍術大会にも出場し、得能関四郎(警視庁)に引き分け、吉田武士郎(宮内省)には勝利。また、春風館で山岡と立合い勝利を収めたが、その試合をきっかけに山岡の無刀流に流儀を改め、竹刀を3尺8寸から3尺2寸に切り詰めた。 1884年(明治17年)8月23日、鷲尾、山岡が結成した剣槍柔術永続社に剣術教授方として参加。11月8日、警視庁主催の第3回向ヶ岡弥生社撃剣大会に出場し、奥村左近太に敗れる。1885年(明治18年)4月15日、済寧館御用掛に任命される。7月7日、伊藤博文邸での剣柔術天覧試合で宮内省剣術の名誉をかけ、警視庁剣術の逸見宗助と立合い籠手を決め勝利。同年10月20日、済寧館御用掛を辞職し帰郷。福岡県御用掛となる。1886年(明治19年)9月1日、福岡県書記兼看守副長となり、1887年(明治20年)12月6日まで務める。
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