明治改暦
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明治改暦(めいじかいれき)は、明治時代に日本で実施された改暦。天保暦の廃止及び太陽暦の導入を内容とする暦法の改正。改暦後、導入した太陽暦を新暦、従前の太陰太陽暦・天保暦を旧暦と呼ぶようになった。
注釈
出典
- ^ 福澤諭吉『福澤諭吉書簡集』 第2巻、岩波書店、2001年3月23日、173-175頁。ISBN 4-00-092422-2。に収録。
- ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、「『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し
大 ()陽暦に改むることにして甚 ()だ妙なり。吾々 ()の本願は唯 ()旧を棄 ()てゝ新に就 ()かんとするの一事のみなれば、何は扨 ()置き先 ()ず大賛成を表したりと雖 ()も、抑 ()も一国の暦日を変するが如 ()きは無上の大事件にして、之 ()を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異 ()なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点 ()せしむこそ大切なれ。欧羅巴 ()の耶蘇 ()教陽暦国にて、露国の暦は他に異 ()なること僅 ()かに十二日なれども、古来の慣行にて今日尚 ()お之 ()を改むるを得ず。然 ()るに日本に於 ()ては陰陽暦を一時に変化して凡 ()そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極 ()にしてその詳 ()なるを知るに由 ()なし、畢竟 ()官辺 ()にその注意なくして且 ()つは筆執 ()る人の乏しきが為 ()めなりと推察せざるを得ず。左 ()れば民間の私に之を説明して余処 ()ながら新政府の盛事 ()を助けんものをと思付 ()き、匆々 ()書綴 ()りたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床 ()の上にて筆を執 ()り、朝より午後に至るまで凡 ()そ六時間にて脱稿したり。固 ()より木葉 ()同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、扨 ()これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林 ()に渡しさえすれば直 ()に売れ行くその有様 ()は之を見ても面白し。一冊何銭とて高 ()の知れたる定価なれども、塵 ()も積れば山と為 ()るの諺 ()に洩 ()れず、発売後二、三箇月にして何かの序 ()に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に上 ()りたることあり。その時、著者は独 ()り心に笑い、この書を綴りたるは僅 ()に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に斯 ()る利益を収領 ()しても宜 ()しかるべきやと、恰 ()も半信半疑に自 ()から感じたるは、旧藩士族根性の然 ()らしむる所にして今尚 ()お之 ()を記憶す。二、三箇月の後も売捌 ()は依然として止 ()まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟 ()余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて余 ()あるには非 ()ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して静 ()に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — -、福澤諭吉『福澤全集緒言』時事新報社、1897年、102-104頁 。 - ^ 円城寺清『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局、1895年、601-602頁 。
- ^ 青木信仰『時と暦』東京大学出版会、1982年9月、p.30頁。ISBN 4-13-002026-9。
- ^ 内閣記録局 (1889—1891). “法規分類大全. 〔第2〕”. 内閣記録局. 2019年2月14日閲覧。
- ^ 『法令全書 明治5年』 第7冊、内閣官報局、1912年、358頁。NDLJP:787952/236。漢字は新字体にあらためた。
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