日本進出と国外退去処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:03 UTC 版)
「テレサ・テン」の記事における「日本進出と国外退去処分」の解説
1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。 1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。 1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で、日本は中華人民共和国と国家の承認をし、中華民国とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。そこで彼女は、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。 この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女をアメリカ合衆国に渡らせることにした。事件から一年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、中華民国国軍の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた。 そして、台湾での歌手活動も再開した。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃『酔拳』を大ヒットさせていたジャッキー・チェンと米国で再会し、互いに思いを寄せるが、人気に溺れ取り巻きの前で侮辱行為を働いたため、失望しジャッキーから離れてしまう。ジャッキーは激しいショックを受けて目を覚ました。その後は親友となった。
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