日本の都城制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:29 UTC 版)
645年、難波宮で行われた大化の改新の詔に「初めて京師を修む」とあり、「京は坊毎ニ長一人を置き、四坊に令一人を置く」となっており、古くから中国の都城制が知られていたことがうかがわれる。実際に都城制が導入された初めての都は、確認できる限り、694年の藤原京が最初であろうといわれている。藤原京は大和の古道(中ツ道・下ツ道・横大路・山田道)に囲われた領域に南北12条東西4坊ずつの街路が整備され、東西南北3門ずつ計12門を持ち、宮城は市域の中央北寄りに位置しており、その北には苑池が配されていたとことなどから、北魏洛陽城の影響が指摘されている。 710年、藤原京の北に平城京が造営される。9条8坊でありながら、道幅を大幅に拡充した朱雀大路や羅城門を備えるなど、一層発展を深めたものとなった。その後、784年の長岡京、794年の平安京へと発展推移していくが、これらの都城が隋唐の長安城から直接の影響を受けたものか、藤原京から日本独自の発展を遂げたものかについては明確となっていない。 日本の都城の特徴としては、中国に見られるような宗廟と社稷が見られず、大陸にあるような京師を囲う羅城が存在しないか、あっても羅城門の東西数十メートルに過ぎなかったことである(平安京に「坊城小路」や「坊路小路」が置かれているのは、裏を返せば朱雀大路は別としてその通りにしか坊城や坊門が存在しなかった可能性を示している)。そのため「都京」とも呼ばれる。日本に羅城が存在しなかった背景として、中国史における都城建設時にみられた王朝に反抗する可能性がある地方の有力者を強制的に移住させた政策や都城の住民を軍事的に動員するための特別な規定がないなど、都城の住民を厳重に閉じ込めて監視する必要性が存在しなかったことにあったとみられている。 藤原京条坊復元図 平城京条坊復元図 平安京条坊復元図
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