日本における徳治主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 19:53 UTC 版)
儒教が説く徳治主義は日本においても法治主義を代表する律令とともに一定の範囲で許容された。もっとも、日本の場合は中国のように科挙が導入された訳ではなく、古代から続く強力な氏族制と中世以後家柄・家格によって地位を占めた支配階層(公家・武家)が国家(朝廷)を支配して人民に対峙する形態となっており、徳治主義を掲げても結果的には支配階層が体制と自らの社会的地位・特権を防衛するための手段という面はあったが、統治者である天皇が徳をもって人民を教化して仁政を施すことの社会政策上の必要性は一貫して認められるところであった。天皇は詔勅で「徳薄くして位にある」と謙遜し、天災があれば自らの徳の無さを責める詔勅を出した。また支配階層の徳治とは別に集団の指導者として徳を高める必要性の認識が室町時代から江戸時代にかけて武士や人民にも見られるようになり、有徳人(有徳者)が社会において崇敬を集めたり、江戸時代には大名が藩士に領民の模範となる行動を求めることがあった。 明治に入ると、教育勅語などを通じて国民に天皇及び国家への忠誠を求める一方で、天皇がそれに相応しい「聖徳」の持ち主であることが盛んに喧伝されるようになった。 また、今日でも責任ある地位の人間が謝罪会見などを行う際に「不徳の致すところ」という表現をしばしば用いられるのも、集団の指導者としての徳の必要性が追求された時代の名残であると言える。
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