日テレ音楽退職後
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1983年に日本テレビ音楽を退社。株式会社ライトリンクスコーポレーションを設立し取締役に就任。友であり仲間の山本又一朗の株式会社フィルムリンク(現在のフィルムリンク・インターナショナル)が映画製作を行い、株式会社ライトリンクスコーポレーションが音楽を担当するという業務形態でスタートする。 また、株式会社ライトジャパンを創立し、こちらは代表取締役に就任。森高千里、KAN、桃井かおり、沢田亜矢子、坂上忍、大和田伸也などのマネージメント業務も開始する。同時にバップ、ビクター音楽産業株式会社(現在のビクターエンタテインメント)、東芝EMI株式会社(現在のEMIミュージック・ジャパン)、株式会社CBS・ソニー(1988年3月に現在のソニー・ミュージックエンタテイメントに吸収合併)、ポニーキャニオンにおいて契約プロデューサーとなる。 イスラエルの大富豪メシュラム・リクリスと契約し、夫人のピア・ザドラ(Pia Zadora)のアジア地域マネージャーを2年間勤める。1984年開催の第13回東京音楽祭にて、ピア・ザドラの『ワイルド・ドリーム』が金賞を受賞し、その責任を果たした。 この間欧米と日本を往復し様々なビジネスも手がける。 また音楽著作物の管理業務を行う音楽出版社、株式会社ユニバァーサル音楽出版の代表取締役に就任。レコード、映画、VTR製作の音楽プロデュースを多数手がける。 1988年、ライトリンクスコーポレーションを株式会社ヤングジャパングループに売却し、テレビ番組の音楽製作やオリジナルビデオの製作協力などを行う株式会社ソーラーカンパニーに取締役として就任。また、株式会社スペースプロデュースにおいて契約プロデューサーとして、東京ベイNKホール他、病院やレストラン等の空間プロデュースを行うかたわら、IWS国際羊毛事務局(現在のオーストラリアン・ウール・イノベーション「AWI」)の『メリノジャパン』の企画製作協力なども手がけ、仕事のジャンルを広げる。 有限会社セシールエンタープライズ(現在の株式会社セシールビジネス&スタッフィング)と契約し、『結婚』(1993年)、『レッスン LESSON』(1994年)などの映画・オリジナルビデオの音楽プロデュースを担当する。 1998年には東日本ハウス(現在の日本ハウスホールディングス)とも契約し、映画『プライド・運命の瞬間』(1998年)の音楽プロデュース、宣伝プロデュースを手がける。 この頃は当時博報堂(元松竹)の映画プロデューサーであった中川完治の作る映画の殆ど全てに音楽プロデューサーとして起用された。 またこの頃から、波乃久里子、井上堯之、井上純一ほかのアーティスト・マネージメント業も再開する。
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