斯波蕃 しば しげり
石川生まれ。金沢藩士。前田慶寧の側近となり、文久3年(1863)慶寧とともに上洛し征長の中止運動に尽力。元治元年(1864)禁門の変が起こると、退京した慶寧の名代として上京し仙洞御所の警備にあたった。慶応元年(1865)家老職となる。戊辰の役では北越地方追討を命ぜられ、長岡城を攻略し、奥羽各地に転戦した。明治2年(1869)金沢藩少参事となり、次いで権大参事となるが、間もなく職を辞す。33年(1900)男爵。
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斯波蕃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:20 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動斯波 蕃(しば しげり / しげる[1]、1843年2月3日(天保14年1月5日)- 1907年(明治40年)3月9日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の武士、華族。男爵。初名は津田 正邦(つだ まさくに)。
経歴
加賀藩士津田正矩の長男として生まれる。文久元年(1861年)、家老津田内蔵助正行(1万石)の養嗣子となり、藩主世子前田慶寧に側近として仕える。8月、慶寧に従って上洛し長州征討の中止に尽力するが、翌年7月に禁門の変が勃発する。慶寧は禁裏守護の任を正邦に任せて退京したため、藩主名代として仙洞御所の警備に当たった。
慶応元年(1865年)に家老職に任じられる。慶応4年(1868年)の北越戦争には家士106名を率いて出兵し、越後長岡城攻防戦では藩兵の総指揮をとるなど陸奥へと転戦する。会津若松城陥落後に藩へ凱旋した。 翌明治2年(1869年)、金沢藩少参事、権大参事に任じられる。
のち、遠祖斯波高経にちなんで斯波蕃と改名する。明治33年(1900年)、戊辰戦争の功により男爵位を受爵する。明治40年(1907年)、鎌倉の別邸にて病没、 享年65。
栄典
親族
- 妻 斯波敏子(はやこ、生駒勘右衛門長女)[1]
- 長男 斯波忠三郎(工学博士、貴族院男爵議員)[1]
- 二男 斯波孝四郎(造船技術者)
- 孫 斯波正夫(貴族院男爵議員、忠三郎長男)[1]
- 養弟 斯波淳六郎(津田正行三男)。
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 |
男爵 斯波(蕃)家初代 1900年 - 1907年 |
次代: 斯波忠三郎 |
固有名詞の分類
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