文部省退官
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明治15年(1882年)12月に文部卿となった大木喬任は九鬼への信頼が弱く、翌年に強力な支持者であった岩倉具視が亡くなると文部省での九鬼の権勢は弱まった、と三宅雪嶺は語っている。さらに明治17年(1884年)、西洋化を進める伊藤博文の方針で森有礼が初代文部大臣に就任したため、元田永孚とともに儒学的な指向だった九鬼は同年5月に文部省を去り、特命全権公使としてワシントンD.C.に赴任した。 ワシントンでは公使館の客間に数百幅の日本画を飾って日本美術を紹介し、また古美術品の海外流出防止の観点から国宝保存を文部省や宮内省に進言している。この背景には以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったと考えられる。明治20年(1887年)、ヨーロッパでの視察を終えたフェノロサと岡倉天心がアメリカに立ち寄り、数年ぶりに再会している。九鬼の妻・波津子が妊娠していたため天心が付き添いとして一緒に帰国し、10月に横浜港に着いた。帰国後、明治21年(1888年)2月15日に生まれたのが後の九鬼周造である。九鬼自身も同年2月に帰国している。
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