文部省学務局長
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1885年(明治18年)12月、折田は文部権大書記官・学務局次長心得に任命され、大学分校校長を去った(後任は中島永元)。1886年(明治19年)3月には学務局長に就任した。 折田が文部省に呼び戻されたのは、1885年(明治18年)12月に文部大臣に就任した森有礼による文部省の官制改革と人事刷新に伴うものである。森は学校教育制度の改革に着手しており、折田はこの作業に加わっている。1886年(明治19年)3月から4月にかけて諸学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令など)が制定された。 この際、大学分校も中学校令に基づいて高等中学校に改組され、1886年(明治19年)4月29日に第三高等中学校となっている。校長は引き続き中島永元が務めた。
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