文観と賢俊の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 17:44 UTC 版)
「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の記事における「文観と賢俊の関係」の解説
第三に、文観が本作品の原本を醍醐寺から借りて返却した、という事実から、当時の宗教界の政治関係を読み解くことができる。 後代の史料では、後醍醐天皇の護持僧である文観は、足利尊氏の護持僧である賢俊と激しく対立し、そのため醍醐寺では文観の報恩院と賢俊の三宝院との間で、南朝と北朝の代理戦争の様相を呈していたと言われている。例えば、『続伝統広録』「大僧正賢俊伝」では邪僧の文観を駆逐して正しい教えを取り戻した立派な僧が賢俊であると、勧善懲悪的な文脈で対決が物語られる。 しかし、内田によれば、同時代史料のみを用いる限り、文観と賢俊の間に対立関係は見いだせないという。一つ目に、『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、賢俊は文観から付法を受けている(師の一人を文観としている)ので、文観から弟子の賢俊に座主が移るのは特段不自然なことではない。二つ目に、賢俊が文観に替わって醍醐寺座主になったのは延元元年/建武3年(1336年)6月で、尊氏が京都を占拠する8月の2ヶ月前のことである。つまり、文観から賢俊への交代は後醍醐天皇の治世下でなされており、「尊氏の後援を受けた賢俊が文観を醍醐寺から追い出した」という認識も実証的には否定される。三つ目に、文観は、本作品に加えて、『弘法大師二十五箇条御遺告』という醍醐寺の重宝中の重宝(後世に偽書と判明)を吉野に一時的に持ち出したことがあり、その時も(北朝側の)醍醐寺座主の賢俊は止めようとすればできたはずだが、特に両者で争った形跡はない。 内田の推測によれば、文観と賢俊は対外的には敵対の立場にあったが、醍醐寺内部では別に両者は対立しておらず、醍醐寺は、南朝と北朝のどちらが勝っても良いように、文観と賢俊という両朝への代表を立てて巧妙に時流への対応をしていたのではないか、という。
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