文学的重要性と批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:54 UTC 版)
作品は、長編小説『秘密機関』(1922年)、短編集『おしどり探偵』(1929年)、長編小説『NかMか』(1941年)に次ぐ『トミーとタペンス』シリーズ27年ぶりの作品(4作目)である。この作品は、世界中の読者から寄せられたふたりのその後の人生を知りたいという要望に応えて書かれ、献辞の部分には「この国や他の国からわたしに向かってこう尋ねてくれる読者の皆さんへ—『トミーとタペンスに何が起こりましたか?彼らは今何をしていますか?』」(英: "to the many readers in this and other countries who write to me asking: 'What has happened to Tommy and Tuppence? What are they doing now?'")と記されている。 フランシス・アイルズ(アントニー・バークリー・コックス)は、『ガーディアン』1968年12月13日号で次のように批評している。 「これはスリラーであって探偵小説ではなく、言うまでも無く巧妙で刺激的な1作だ。どんな人物でも(多分、ほぼ全員が)スリラーを書くことはできるが、純粋な『アガサ・クリスティー』となると1人にしか書くことができない」"This is a thriller, not a detective story, and needless to say an ingenious and exciting one; but anyone can write a thriller (well, almost anyone), whereas a genuine Agatha Christie could be written by one person only." 『オブザーバー』紙の1968年11月17日号には、モーリス・リチャードソン(英: Maurice Richardson)が批評を掲載し、「彼女の最高傑作ではないが、気持ちの良い多幸感と邪悪な雰囲気とをつなぎ合わせた作品」と述べている。 またロバート・バーナード(英語版)は次のように述べている。 「上品な老人ホームに住むトミーの意地の悪い叔母が登場して幾分良い感じで始まるが、すぐに半分現実的な筋書きの混乱と、多過ぎる会話に傾いていってしまう。どれも最近のクリスティ作品ではお馴染みのことだが、見当違いの事柄や反復、取るに足らないことがとりとめもなく続き、どこにも行き着かない(まるで彼女がサミュエル・ベケットの足下に座っているように)。ダイアローグの節約にだけ真の価値がある—全ての点が、それか少なくとも可能な点が押さえられていて、初期のクリスティのようだから」
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