教育映画から軽演劇の時代
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1930年(昭和5年)3月27日、埼玉県北足立郡川口町(現在の同県川口市)に生まれる。堺が3歳を迎えた1933年(昭和8年)4月1日に同地域は川口市になった。幼少時に両親と死別し、『ザ・ロケーション』の津田一郎によれば、堺は「強い姉に育てられた」と述懐したという。 第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月、旧制・川口市立川口中学校(1951年県に移管されて埼玉県立川口高等学校)に進学したが、中途退学した。終戦後は、同市での古くからの地場産業である鋳物工場の職工になり、その後、各種の職を転々とした。その傍ら、自由音楽院声楽科、次いで国際綜合芸術院映画科に学ぶ。 1951年(昭和26年)4月1日に創立した東映が製作、同年7月27日に公開した『吾子と唄わん』(監督野村浩将)に出演しているという。1956年(昭和31年)3月8日に公開された『警視庁物語 魔の最終列車』(監督小沢茂弘)、1957年(昭和32年)9月23日に公開された『二宮尊徳の少年時代』(監督村山新治)に、本名の坂井 勝利でクレジットされた記録が残っている。同年6月に施行された美容師法によって新設された美容師国家試験を、時期は不明であるが受験して美容師資格を取得しているという。1958年(昭和33年)には、新宿フランス座(新宿ミュージックホール、現在跡地に新宿伊勢丹メンズ館)で三波伸介(1930年 - 1982年)が軽演劇の座長になっているが、三波が同座に在籍するのは1960年(昭和35年)までであり、堺が三波に師事するのはこのころである。
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