教科研教授学部会・教授学研究の会
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「斎藤喜博」の記事における「教科研教授学部会・教授学研究の会」の解説
斎藤は島小11年の後、近隣の境東小学校に1年勤めた後、境小学校長に転じたが、この頃、太平洋戦争以前からの古い歴史を持つ民間教育研究団体である教育科学研究会の研究大会が開かれた。同会は戦時中は休会していて戦後再建されたのであるが、斎藤はこの再建活動に積極的に関わった。彼は、かつては日教組の教研集会に積極的に参加していたのであるが、教科研再建の動きが生まれてからは、党派色の薄い同会の活動に軸足を移したのである。 再建された教科研の第2回の研究大会(1963年)からは、斎藤と共に活動していた当時東大の大学院生でソビエト教授学の研究者である柴田義松らと諮らって、会内に「教授学部会」を設立した。斎藤は、島小や境小での教育実績を基に、「すぐれた授業」を成立させるための方法の体系化、すなわち授業の学問の構築を目指していたのであるが、当時の教育学では、柴田が紹介したソビエト教授学の「教授学」が授業の学問の呼称であるとされていたので、「教授学部会」と名付けたのであった。 研究大会の同部会では、いつも最初に斎藤が基調講演を行って会の議論をリードした。67年の第4回大会などでは、3日間5時間にわたって「授業が成立するための基本的条件」という講演が行われた。柴田によれば、「教授学部会は、斎藤さんに教えを受ける斎藤学校になった」という。 斎藤人気で、教科研大会での教授学部会への参会者は他部会に比して突出して多く、会場に入り切れないほどになってしまった。そこで世話人の柴田が、部会を渡り歩く人は入室を遠慮するよう表明したところ、これを不満とする参会者が大会本部に訴え、本部が参会者の肩を持つような対応をしたためトラブルが生まれたりした。こんなことが一因になって、斎藤は1973年、教科研を脱退して独自に「教授学研究の会」という研究会を立ち上げた。すでに斎藤は、69年に58歳で境小学校長を定年退職していた。この会は、斎藤が亡くなる81年まで日常的に研究会を持つと同時に、毎年1回研究大会を開き、各回定員一杯の700名を超える参会者を集めた。 この教授学研究の会の大会でも、冒頭に斎藤が基調講演を行い、それが後に何冊もの授業論書にまとめられた。また教科研教授学部会の時代から引き続いて、大会での研究発表の内容を中心とした『教授学研究』という紀要が計11冊刊行された(国土社)。
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