教科研教授学部会・教授学研究の会とは? わかりやすく解説

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教科研教授学部会・教授学研究の会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 04:38 UTC 版)

斎藤喜博」の記事における「教科研教授学部会・教授学研究の会」の解説

斎藤は島小11年の後、近隣境東小学校1年勤めた後、境小学校長に転じたが、この頃太平洋戦争以前からの古い歴史を持つ民間教育研究団体である教育科学研究会研究大会開かれた。同会は戦時中休会していて戦後再建されのであるが、斎藤はこの再建活動積極的に関わった。彼は、かつては日教組教研集会積極的に参加していたのであるが、教科研再建の動き生まれてからは、党派色の薄い同会の活動軸足移したのである再建され教科研第2回研究大会1963年)からは、斎藤と共に活動していた当時東大大学院生ソビエト教授学研究者である柴田義松らと諮らって、会内に「教授学部会」を設立した斎藤は、島小や境小での教育実績を基に、「すぐれた授業」を成立させるための方法体系化、すなわち授業学問構築目指していたのであるが、当時教育学では、柴田紹介したソビエト教授学の「教授学」が授業学問呼称であるとされていたので、「教授学部会」と名付けたであった研究大会の同部会では、いつも最初に斎藤基調講演行って会の議論リードした67年第4回大会などでは、3日間5時間わたって授業成立するための基本的条件」という講演が行われた。柴田によれば、「教授学部会は、斎藤さん教えを受ける斎藤学になった」という。 斎藤人気で、教科研大会で教授学部会への参会者は他部会比して突出して多く会場入り切れないほどになってしまった。そこで世話人柴田が、部会渡り歩く人は入室遠慮するよう表明したところ、これを不満とする参会者が大会本部訴え本部参会者の肩を持つような対応をしたためトラブル生まれたりした。こんなことが一因になって斎藤1973年教科研脱退して独自に教授学研究の会」という研究会立ち上げた。すでに斎藤は、69年58歳で境小学校長を定年退職していた。この会は、斎藤亡くなる81年まで日常的に研究会を持つと同時に毎年1回研究大会開き各回定員一杯700名を超える参会者を集めた。 この教授学研究の会の大会でも、冒頭斎藤基調講演行い、それが後に何冊もの授業論書にまとめられた。また教科研教授学部会時代から引き続いて大会で研究発表内容中心とした『教授学研究』という紀要が計11刊行された(国土社)。

※この「教科研教授学部会・教授学研究の会」の解説は、「斎藤喜博」の解説の一部です。
「教科研教授学部会・教授学研究の会」を含む「斎藤喜博」の記事については、「斎藤喜博」の概要を参照ください。

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