教導飛行師団 第4教導飛行隊
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「浜松陸軍飛行学校」の記事における「教導飛行師団 第4教導飛行隊」の解説
1945年(昭和20年)7月10日、軍令陸甲第103号が下令され、それまで航空要員の教育と作戦行動を兼務していた浜松ほか各教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊に分離改編された。教育専任となったのは、それまで6個編成であった各地の教導飛行師団を統合し地名を冠称しない教導飛行師団(司令部は従来の宇都宮教導飛行師団基幹)1個とその指揮下の第1から第6までの教導飛行隊である。浜松教導飛行師団は第4教導飛行隊となった。作戦部隊としては第27飛行団司令部が浜松教導飛行師団の人員から編成された。三方原教導飛行団は編制に改正はなかった。 同年8月、御前会議でポツダム宣言の受諾が最終決定され、8月15日正午より太平洋戦争の終戦に関する玉音放送が行われた。8月18日、全陸軍は与えられていた作戦任務を解かれ、各部隊は逐次復員を行った。 浜松陸軍飛行学校本校の跡地は、同年9月以降アメリカ軍の不時着用飛行場として使用された。1952年(昭和27年)10月、警察予備隊を改編した保安隊が同地に保安隊航空学校を開設した。当時浜松では設置反対を呼びかけるビラなどが撒かれて不穏な空気が漂い、これに先立つ7月6日には、旧兵舎が放火と見られる火災によって消失している。1954年(昭和29年)7月、航空自衛隊が発足すると操縦、整備、通信の各学校が同地に置かれ、翌1955年(昭和30年)9月には航空自衛隊浜松基地となった。
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