教員志願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
菊栄は生活費と婦喜の治療費のため、友人が芸妓として人気を呼んでいたこともあって、かつて乙女に習った三味線と琴の腕をいかして芸妓になろうと考え、あちこちの楼閣を訪ねた。しかし実際の芸妓の生活の辛さを知って思い留まり、教員への道を目指した。これには以下の諸説がある。 菊栄の友人が、菊栄が芸妓になると聞いて、思い留まるよう進言した。 求職先の1件の女将は、幼い頃に樹庵に命を救われた恩義から菊栄を諭し、教員の道へ進めた。 教員を志した菊栄は、自ら遊芸道具を売り払って、婦喜の薬と参考書を買い求め、婦喜の看病の傍ら、髪もとかずに勉強に明け暮れた。折しも当時は、小学校教員は恒常的に不足していたため、授業生(補欠教員)であれば学歴が無くとも学力検定試験で資格取得が可能であり、新聞紙上でも「教員募集」の広告が頻繁に掲載される時代であった。 1889年(明治22年)、第6回小学教員学力検定試験の日、菊栄は受験料も確認せずに受付先の高知県庁へ向かった。受験料は50銭であり、菊栄はその半額の25銭しか持っていなかった。さらに合格時には、それに加えて1円が必要だった。菊栄は当時の学務課長に面会を求め、窮状を訴えて「合格したら倍にして返す」と、受験料を値切ることを訴えた。県庁創設以来の珍事ではあったが、学務課長は菊栄のあまりの熱意に、それを受け入れた。 菊栄は、受験料50銭の倍の1円に加えて合格時の1円、計2円を工面するため、芸妓として求職していた先の女将に、着物の仕立ての仕事を求めた。同1889年、菊栄は検定に合格した。菊栄は約束通り、2円を持参して学務課長のもとを訪れた。学務課長は快く2円を受け取りつつも、自分からの慶びと言って、固辞する菊栄の手にその2円を握らせた。菊栄はこの恩義を、後々まで忘れることはなかった。
※この「教員志願」の解説は、「岡上菊栄」の解説の一部です。
「教員志願」を含む「岡上菊栄」の記事については、「岡上菊栄」の概要を参照ください。
- 教員志願のページへのリンク