政治的な修業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:22 UTC 版)
「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「政治的な修業」の解説
1812年から1827年は、ロスにとって政治的修業の期間でもあった。アメリカ合衆国との交渉の仕方を覚え、政府を運営するための技術を学ぶ必要があった。1814年以降、チェロキー族立法者と外交官としてのロスの政歴は、首長パスキラー、首長補佐のチャールズ・R・ヒックス、およびチェロキー・ネーションの年長の政治家メイジャー・リッジのような者達の支援で発展していった。1813年、アメリカ合衆国との関係がより複雑なものになり、年取って、教育を受けていないパスキラーのような首長では効果的にチェロキー族の利益を守れないようになった。ロスの支配的立場は、教育を受け、英語を話す指導者がネーションとして重要であるとチェロキー族が認めたことを示していた。パスキラーもヒックスもロスをチェロキー・ネーションの将来の指導者と見なし、そのための訓練をした。ロスはパスキラーとヒックスの秘書を務め、ネーションの財務や政治のあらゆることに関わった。チェロキー族の将来の指導者の教育として同じくらい重要だったのはチェロキー・ネーションの伝統についての教導だった。ヒックスはロスに宛てた一連の手紙の中で、チェロキー族の伝統と知られるものを概説した。 1816年、ネーション議会はワシントンD.C.に送る初代代議員としてロスを指名した。1816年の代表団はネーションの境界、土地の所有権、およびチェロキー族の土地への白人の侵入という微妙な問題の解決を指示された。代表団の中でロスだけが英語に流暢であり、このことで交渉の場の中心人物になった。伝統的に年長者を好むチェロキー族社会にあってロスのような若者には特異な地位となった。ロスが初めて政治家として地位を得たのは1817年11月にネーション議会を形成した時だった。ロスは13人の議員のうちに選ばれ、そろぞれが2年間の任期となった。ネーション議会はアンドリュー・ジャクソン将軍がチェロキー族少数派を代表する小さな徒党と2つの条約を結んだ後で、チェロキー族の政治的権威を固めるために創設された。ネーション議会の議員であることで、ロスはチェロキー族指導層の支配的特権階層に入った。 若いときのジョン・ロス
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