政治・経済的理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 23:36 UTC 版)
移転運動の頃、市場の規模にも差が出ていた。1882年(明治15年)の時点で、宇都宮町の取引高は145万4,911円、栃木町が14万2,868円であり、翌年は宇都宮町131万2,702円、栃木町9万7,690円であった。この違いからも運動の機運が生まれたとされる。 また栃木県北東部・那須野が原の開拓は当時の関心事であり、県庁移転の目的のひとつに数えられた。この地方の開墾の中心人物は印南丈作、矢板武(矢板は清巌寺会合に出席)らで、両人は1876年(明治9年)9月、鍋島の管内巡視の折に開墾を進言して激賞され、以降は水路や大運河の建設計画に参画したが資金不足により頓挫した。1879年(明治12年)11月、内務卿伊藤博文とともに視察に訪れた大蔵卿松方正義から「寧ろ一日も早く土地の開墾に着手し、然る後徐ろに水路の開鑿を図らんには如かず」との助言を受け、翌1880年(明治13年)に印南を社長として那須開墾社を設立。同年7月、山形県令を務めていた三島もこの地に肇耕社(三島農場)を起こして開拓に従事し、続いて松方、西郷従道、大山巌、品川弥二郎らの高官がこの地を割拠所有して「華族農場」を築いた(40の農場のうち、19が華族農場であった)。栃木市の郷土史家・石崎常蔵は、この県庁移転によって県庁から三島農場へのアクセスがより容易になったことを指摘し、移転は三島の私欲的な行動でもあったのではないかという疑念を吐露している。 なお、栃木町が自由民権運動の盛んな土地柄であったことも影響したと言われる。1881年(明治14年)の自由党員名簿では、栃木県の党員は232名で、秋田県の415名に次いで全国2番目の多さであり、うち下都賀郡107名、河内郡69名であった。三島による強力な自由党弾圧はよく知られるところだが、栃木町側では移転の原因としてこの点が意識され、栃木市入舟町の県庁跡地に立つ石碑にもその旨が述べられている。 予以為らくこれより先上野国三郡群馬県に編入栃木町の位置その中心たるを失ひしを以て理由となすも その真意はこの地本県における自由民権運動の発祥地たるをわが郷党の進取自由の気を避けしなるべし —日向野徳久
※この「政治・経済的理由」の解説は、「栃木県庁の移転」の解説の一部です。
「政治・経済的理由」を含む「栃木県庁の移転」の記事については、「栃木県庁の移転」の概要を参照ください。
- 政治・経済的理由のページへのリンク