掲載内容のずれ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 17:00 UTC 版)
武鑑に限ったことではなく、現代の出版物でもあることだが、一年に一回しか改訂されず、かつ情報を仕入れ版木を彫って、刷り、刊行するので当然ながら、掲載内容に差が出てこざるをえないので、この点は注意すべき点である。 例えば『編年改訂 文化武鑑』に掲載される文化10年(1813年)刊行の須原屋茂兵衛蔵版の武鑑においては二本松藩主として丹羽長祥(加賀守)、嫡子として丹羽覚蔵誠之が登場するが、実際には丹羽長祥は文化10年8月25日(1813年9月19日))に死去している。翌年の武鑑では丹羽誠之(左京太夫。後の丹羽長富)が前年11月に相続したことが掲載されている。他方、文化9年2月3日(1812年3月15日)に久留米藩主・有馬頼貴が死去し、孫の有馬頼徳が相続するが、文化9年(1812年)の武鑑では久留米藩主として有馬頼徳が掲載されており、文化9年3月に相続した旨が掲載されており、掲載が間に合っている。 また、延享3年(1746年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑においては、盗賊並火付方御改として掲載されているのが小濱平右衛門(同年4月28日まで)と中嶋百助(同年6月12日まで)、同延享3年12月5日(1747年1月15日)に死去している保科主水が出火之節見廻御役として掲載されていたりしている。 この点は現代の出版物でもいえることだが、武鑑の場合、『編年』を宣伝文句にしながら家臣情報などの一部分が毎年改訂でない場合があり、これは他史料で比較すると明らかになる。 例えば、巻2末項に『諸大名御隠居方並御家督』という全大名家の隠居者の一覧がある。米沢藩主上杉治憲は隠居してしばらくたった享和2年(1802年)に剃髪して鷹山と号したが、『諸大名御隠居方並御家督』において治憲の表記が『米沢侍従鷹山藤原治憲』に変更されるのは文化9年(1812年)の武鑑からである。 また、先述のとおり家臣の役職名が武鑑と実際の藩職で違う場合があるが、これは各藩によって呼称が違う役職名を実際の機能を考慮して標準化したり、陪臣と幕職との身分差に配慮した結果である可能性が高い。 例えば、米沢藩の小姓頭や大目付、仲之間年寄は武鑑では全て用人として掲載されていたり、仙台藩の小姓頭の坂時秀(英刀)が用人として掲載されているが、これは標準化の結果である可能性が高い。 米沢藩や仙台藩、越後長岡藩に奉行職があるが、幕職の諸奉行に配慮してか米沢藩や仙台藩の場合は項目を設けずに米沢藩では就任資格のある侍組分領家当主をまるまる掲載、仙台藩では一門と分けて掲載したりしている。越後長岡藩では『中老』として掲載し、実際に中老がいる場合には線引きで実際の中老と奉行を項目内で差別化掲載したりしている。 なお、実際は番頭兼用人であるが、武鑑に番頭の項目が設定されない藩の家臣である場合は用人として掲載している場合もある。
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