打ちこわしの全国波及
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「天明の打ちこわし」の記事における「打ちこわしの全国波及」の解説
天明7年5月12日(1787年6月27日)夜、堺で打ちこわしが発生し、米関連の商家約30軒が被害に遭った。そして天明7年5月13日(1787年6月28日)、大坂の搗米屋は一斉に売り切れの札を店先に掲げ、閉店状態となったのを受け、大坂町民が近隣に米の買い出しに出る事態となった。天明7年5月13日(1787年6月28日)には兵庫で江戸に向けて回米を行っていた米屋など、6軒の米屋が打ちこわされた。これは米価高騰の中、江戸へ向けての回米が集中的に行われた影響が出たものと考えられる。その後打ちこわしは大坂近郊では大和郡山、奈良、枚方、茨木、尼崎、伏見、岸和田などへ波及し、京都も不穏な情勢となった。 その後打ちこわしは瞬く間に各地へと広がっていった。この背景には数年来顕著になっていた物価上昇、更に米価の高騰が加わって全国各地の庶民の生活は極めて厳しい状況に陥っていた点や、江戸商人による米の買占めによって米不足に陥った福井で打ちこわしが発生したり、尾道では米不足の中、入港する米の減少とともに、各地から尾道に集まる商人たちによって米の買い付けが行われたために著しい米不足となり、打ちこわしに繋がるなど、米市場の多様化を背景に全国各地で活発となっていた米取引が折からの米価高騰によって投機色を強め、全国的に米の買い占めが広まって各都市で生活する庶民の生活にさらなる打撃を与えていた点が挙げられる。また尾道では打ちこわし当時、港や宿場で働いていたり繰綿などに従事する労働者が多数借家で生活していたことが確認されており、自家の町人、職人の約1.6倍に達していた。このような借家で生活する単純労働者が全国各都市で増加しており、全国各地で同時多発的に発生した打ちこわしの中心となった。 その他天明7年5月には和歌山、熊本、岩槻、広島、駿府、長崎、神奈川、下関、博多、久留米など当時の主要都市30カ所あまりで打ちこわしが発生した。これは江戸時代を通じて打ちこわしの月間最多数であった。そして打ちこわしは天明6年6月には更に石巻、小田原、宇和島などへと広まった。なお天明6年6月に打ちこわしが発生した石巻と宇和島では、銭相場の下落に伴う庶民の生活苦が打ちこわしの要因となった。一方天明3年(1783年)夏、大飢饉直前に各地で打ちこわしが発生した東北地方は、天明7年(1787年)6月に会津藩領の坂下や石巻で打ちこわしが発生したものの、他の地域と比較して情勢は落ち着いていた。これは先述のように天明3年から4年にかけての大飢饉の教訓を受け、東北地方からの米の移出に制限を加えたため、米の供給に比較的余裕があったためである。 前年から続いていた幕府内の激しい権力闘争に伴う一種の政治空白が、米価高騰に対する民衆の鬱積した不満に、幕府役人が注意力を欠く要因となったとの見方もある 大坂に始まった打ちこわしが全国各地へと広まったことは、幕府のお膝元である江戸で発生した大規模な江戸打ちこわしと共に幕府に大きな衝撃を与えることになる。
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