手紙の作成
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「アインシュタイン=シラードの手紙」の記事における「手紙の作成」の解説
エリザベートへの手紙を依頼するため、1939年7月16日にウィグナーとシラードは車でアインシュタインの別荘へ向かった。 別荘はロング・アイランドの東端に近い入り江に突き出た岬の付け根近くにあったが、さんざん道に迷い、多くの人に通りの名を尋ねたものの誰もその通りを知らなかった。 ようやくたどり着けたのは、地元の子供にアインシュタインの家を知っているかと直接尋ねた後だった。 彼らを軽装で迎えたアインシュタインは、シラードに説明を受けたこのとき初めて連鎖反応について理解することになった。 彼は話の途中ドイツ語で「そんなことは考えてもみなかった!」と叫んだという。 シラードによれば、アインシュタインは王太后の代わりにベルギーの内閣閣僚となっていた知人への手紙ならば書くことを約束した。 ウィグナーはまずそれをアメリカ政府へ送り、添え状をつけるべきだとし、そのことも合意された。 このときアインシュタインがドイツ語で口述した草稿が、その後いく度もの改訂を経て最終的にルーズベルト大統領宛の手紙となることになる。 シラードがアインシュタイン邸から戻ってきてみると、アメリカ政府への接触の試みによって、フランクリン・ルーズベルトの選挙で演説原稿を書いたことのある経済学者アレクサンダー・ザックス (Alexander Sachs) がシラードに会うと告げてきていた。 数日後、シラードとテラーはこのザックスと面会した。 シラードの話を聞いた上でザックスは大統領に伝えるべきであるとし、手紙を自らが大統領に渡すと約束した。 この大胆な提案にシラードとテラーは乗り気となり、元々ベルギー宛であったアインシュタインの草案を元として、シラードがルーズベルト宛へと書き換えた第2の草案が7月19日にアインシュタインへと送られた。 アインシュタインは大統領宛となったこの手紙を送ることに快く応じたものの、この草稿をもう一度検討したいと返答し、7月末ごろシラードとテラーが再びロング・アイランドの別荘へと向かった。 免許のなかったシラードを車に乗せたテラーは後に「私はシラードの運転手として歴史に名を残した」とこのときの経験を述べている。 こうしてアインシュタインとシラードとの相談によって3つ目の草案が作成された。 このときアインシュタインは「うん、そうだ。 これではじめて、人類が核エネルギーを〔太陽からの〕間接的なものじゃなく直接に解放することになるぞ」と言ったという。 シラードは再びザックスと会い、この草案を読んだザックスとの相談によって、政府と科学者との仲介者の役割をよりはっきりさせた長い文案も作成された。 これら英訳された長短2つの文面が最終案として8月2日にアインシュタインに送付された。 アインシュタインは両方に署名した上で長い方が良いと思うと書き添え、8月9日までにシラードに返送している。 またあまり賢くやろうとせず大胆にやれという趣旨のことが付記されていた。 シラードらには、はたして大統領への仲立ちとしてザックスが適任かどうか疑問があったものの、シラードは大統領に渡せない場合は返送して欲しいと付け加え、アインシュタインが署名した長い方の手紙が、8月15日にザックスへと手渡された。
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