手紙の起草
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第二次大陸会議は1775年5月10日に招集されたが、これは4月19日に植民地軍がイギリス軍大部隊に抵抗してボストンまで追い返したレキシントン・コンコードの戦いの起こった後のことだった。この時の勝利で大陸会議は大きな興奮と期待の中で最初の会期を開くことになった。 ジョン・ブラウンは5月17日にフィラデルフィアに到着し、タイコンデロガ砦を占領したこととサンジャン砦を襲撃したことを報告し、それが大陸会議の議論を刺激した。5月26日、大陸会議はカナダ住人に宛てた第二の手紙を書くことを決めた。その手紙を起草する委員会は、ジョン・ジェイ、サイラス・ディーンおよびサミュエル・アダムズで構成された。アダムズは以前、ボストン通信委員会のためにカナダ人民宛ての手紙を書いたことがあった。5月29日、モントリオールの商人ジェイムズ・プライスからモントリオールの情勢に関する追加報告を聞いた後で、第二次大陸会議は委員会の起草した手紙を承認した。 この手紙は「カナダの抑圧された住民への手紙」と題され、フランス語では「Lettre adressée aux habitants opprimés de la province de Québec, de la part du Congrès général de l’Amérique septentrionale, tenu à Philadelphie.」と訳された。この手紙に議長のジョン・ハンコックが署名し、再度ピエール・ユージェーヌ・デュ・シミティエールが翻訳した。フルーリー・メスプレが1,000部を印刷した。手紙の中身はジョン・ジェイが書いたとされている。
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手紙の起草
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この敗北後の1776年1月23日、大陸会議はカナダ住民に宛てる再度の手紙を起草する委員会を設定した。この時の委員会メンバーはウィリアム・リビングストン、トマス・リンチ・ジュニアおよびジェイムズ・ウィルソンの3人だった。手紙は翌日承認され、議長のジョン・ハンコックが署名した。
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