所属事務所の倒産
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しかし1980年代以降はフォークブームが過ぎ、左翼運動や学生運動の後退により政治色の強いプロテスト・フォークは廃れ、好景気を背景に「四畳半フォーク」は「ダサい」と言われるようになる。「ネクラ・ネアカ」が流行語となった世相の中で、山崎の楽曲は「暗い」と言われてレコードのセールスが伸び悩むようになった。当時はタモリなどのお笑い芸人が「暗い曲・怖い曲」として山崎の楽曲を笑いのネタにすることさえあった。 1985年、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック)へ移籍。アルバム『光る夢』を発表。ポリドールからは1986年11月発売のライブアルバム『私の幸せ』まで4枚のアルバムを発売するが、このアルバムの制作前に音楽事務所からは「最後の弾き語りステージをライブアルバムとして残したい」と言われており、活動休止が示唆されていた。 その後、約3年のブランクを経て1990年にトーラスレコード(現:ユニバーサルミュージック)へ移籍し、『SA・SU・GA(流石)』など2枚のアルバムを発表。この頃から、それまでのフォーク調からブルース色が強くなり、曲調やジャケット写真も都会的な雰囲気を強調してイメージチェンジを図った。 翌1991年にBMGビクターへ移籍(1994年以降のアルバムはビクターから発売)。1994年に初のカバーアルバム『十八番 (おはこ) 』で第36回日本レコード大賞アルバム企画賞を受賞。翌1995年には初のセルフカバーアルバム『ハコのお箱』を発表した。 また1991年より、女優の渡辺えりと親交を持ったことを契機に、渡辺が主催する「劇団3○○」の演劇に出演し、舞台女優としても活動を開始する。 1997年には、NHK『みんなのうた』で「わっしょいニッポン」が放送された。 しかし、裕木奈江主演の1993年放送のテレビドラマ『ポケベルが鳴らなくて』(日本テレビ)の撮影が始まった時期に、山崎がデビュー時から所属していた音楽事務所「IMADOKI」代表の星野が、交通事故に遭い大怪我を負って入院してしまう。これに引き続く裕木に対するバッシングなどもあり、星野は精神的に追い詰められていく。そうしたことから、1998年に「IMADOKI」が倒産し、山崎はフリーとなる。なお星野によれば、石黒ケイは1986年から1987年にすでに同事務所を離れており、倒産時点では山崎と裕木が在籍していた。
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