戦犯容疑者の扱い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 08:01 UTC 版)
「旧武装親衛隊員相互扶助協会」の記事における「戦犯容疑者の扱い」の解説
HIAGでは長らく戦争犯罪の定義に関する議論と戦争犯罪に関する起訴の否定を行ってきた。また、HIAG会員には武装親衛隊員以外に髑髏部隊やSS保安部(SD)の元隊員も多かった。これはSS隊員らが複数の部局・部隊に所属する事が多かったことに起因し、例えば髑髏部隊を率いたテオドール・アイケ将軍も当初は強制収容所所長などとして勤務する一般SS隊員だったが、後に髑髏部隊の志願者から髑髏師団が結成されると師団長として武装SS隊員たる階級を得ている。1979年には髑髏師団戦友会がHIAGと共に式典を開いている。 1959年、当時のHIAG広報官クルト・マイヤー元SS少将は、HIAG会員たる髑髏部隊およびSD隊員への批判に対して「彼らの罪よりも戦友愛を尊重する」と述べた。この際、マイヤーは彼自身もカナダ兵捕虜殺害の罪で戦犯容疑者として裁かれた旨を語った。マイヤーの他にも、当時のHIAG幹部にはオットー・クム元SS少将、ゼップ・ディートリヒ元SS上級大将、リヒャルト・シュルツェ=コッセンス(ドイツ語版)元SS中佐など、戦犯容疑者として裁かれた元将校が多かった。 HIAGではニュルンベルク裁判で示された「武装親衛隊もまた犯罪者組織である」という判断を認めず、戦犯容疑者として裁かれた元隊員も戦友として受け入れていた。1975年4月には、グスタフ・ロンバルト元SS少将の80歳の誕生日がHIAGによって盛大に祝われた。ロンバルトは東部占領地域におけるユダヤ人殺害の組織化に関与し、「脱ユダヤ化」(Entjudung) なる語を造語した人物である。 また、服役中の戦犯容疑者への支援も行っていた。1960年、『デア・フライヴィリゲ』誌はイタリアにて投獄されている3人の囚人に寄付や手紙を送るキャンペーンを行っている。この3人とは、バッサーノの虐殺として知られる事件に関与したヴァルター・レーダー(ドイツ語版)元SS少佐、ヘルベルト・カプラー元SS中佐、ヨゼフ・フォイヒティンガー(Josef Feuchtinger)の3将校であった。このうち、レーダーは反省の辞を述べて1985年に出所・帰国し(ただし後に反省は取り消した)、カプラーは看護婦だった妻の協力を得て1977年に脱獄して帰国し、翌年死去した。 クルト・マイヤー(1943年2月撮影。当時SS中佐) ゼップ・ディートリッヒ(1943年6月28日撮影。当時SS大将) リヒャルト・シュルツェ=コッセンス(1939年8月23日撮影。当時SS中尉)
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