献帝 (漢)とは? わかりやすく解説

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献帝 (漢)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 01:40 UTC 版)

献帝(獻帝、けんてい)は、後漢の第14代(最後)の皇帝は協。霊帝の次男で、少帝劉辯の異母弟。母は美人(側室)の王栄諡号は、からは孝献皇帝蜀漢からは孝愍皇帝


  1. ^ 『逸周書・諡法解』では「聡明叡哲曰く献」、『史記正義・諡法解』では「聡明叡哲曰く献、知に通じるの聡有り」「知質有聖曰く献、通じて而も蔽無し」とされている。
  2. ^ 『逸周書・諡法解』では「国に在りて難に逢うを愍と曰う」「民をして折傷せしむるを愍と曰う」「国に在りて憂に連なるを愍と曰う」「禍乱方に作らんとするを愍と曰う」とされている。
  3. ^ 太平御覧』巻137が引く司馬彪続漢書』記載「光和四年三月癸巳,生于雒陽宮」(両千年中西暦換算より、この日は紀元181年4月2日)より。
  4. ^ 三国志ハンドブック、1998年7月10日発行、監修者・陳舜臣、編者・竹内良雄、152頁。
  5. ^ 当時、雒陽城の南宮にあった御殿の一つ。
  6. ^ 戦闘での官吏や民の死者は数万人に昇ったという。また、長安周辺の民は李傕らの略奪と破壊に遭い、数年の間飢餓に苦しんだという。
  7. ^ 長安から洛陽に帰還する途中、献帝が乗っていた馬車が破損してしまったために代わりに農民の牛車に乗って洛陽に帰還した。これ以降、貴人は牛車に乗って移動するようになったとする伝承がある。また、この慣習が日本にも伝わり、平安貴族が移動手段として牛車に乗ったはその影響を受けているとする説がある(中村潤子「運ぶ手段」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01730-5 P297-298)。
  8. ^ 『後漢書』献帝伏皇后紀
  9. ^ 曹操は周の文王にならい皇帝にはならなかった。また皇帝になれば、劉備や孫権も皇帝を名乗るという乱立が起きる恐れがあった。皇帝の乱立は曹操の死後、曹丕が漢王朝を廃し皇帝に即位したことで現実のものとなった。
  10. ^ 献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これはに娘を嫁がせた故事をなぞったものである。
  11. ^ なお『三国志演義』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが、毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。
  12. ^ 後漢書』献帝紀より。


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