劉蒜とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉蒜の意味・解説 

劉蒜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 17:10 UTC 版)

劉蒜(りゅう さん、生年不詳 - 147年)は、後漢皇族清河王

経歴

清河恭王劉延平(楽安夷王劉寵の子)の子として生まれた。建康元年(144年)、父が死去すると、清河王位を嗣いだ。永憙元年(145年)、沖帝が崩ずると、劉蒜は洛陽に召し出されて、皇嗣とするよう議論された。大将軍梁冀と皇太后の梁妠質帝を擁立したため、劉蒜は清河国に帰った。

劉蒜は性格がいかめしく、挙措には節度があり、太尉李固をはじめ心を寄せる朝臣たちが少なくなかった。いっぽうかつて中常侍曹騰が劉蒜に面会したとき、劉蒜が礼を取らなかったことから、宦官たちは劉蒜を憎んでいた。本初元年(146年)、質帝が崩ずると、公卿たちは劉蒜を立てるよう議論したが、曹騰が梁冀を説いてその議を排し、桓帝を立てさせた。

建和元年(147年)、甘陵県の劉文が魏郡の劉鮪と結んで、清河王が天子を嗣ぐべきとの流言を流し、ともに劉蒜を擁立しようとした。事が発覚すると、劉文らは清河国の相の謝暠を捕らえて脅かし、王宮の司馬門に向かうと、「清河王を立てて天子とし、謝暠を公とすべし」といった。謝暠が聞き入れず、劉文らを罵ると、劉文は謝暠を刺殺した。劉文と劉鮪は捕らえられて処刑された。この事件のため、御史が劉蒜を弾劾して奏上し、劉蒜は爵位を尉氏侯に落とされた。身柄を桂陽に移され、自殺した。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉蒜」の関連用語

1
100% |||||


3
10% |||||

4
10% |||||

5
10% |||||

6
10% |||||



9
8% |||||

10
8% |||||

劉蒜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉蒜のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉蒜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS