従軍生活、創作の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 06:51 UTC 版)
「イサーク・バーベリ」の記事における「従軍生活、創作の再開」の解説
1917年にロシア革命が勃発した後、バーベリは陸軍に志願入隊し、ルーマニア方面に出征した。1917年末にチェーカーに入隊、マラリアに罹ったバーベリは1918年に除隊となってオデッサに戻る。その後バーベリはチェーカー、文部人民委員会、食糧徴発隊、ユデーニチ討伐隊、第一騎兵隊に勤務した。1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ指揮下の第一騎兵隊に記者として従軍したバーベリは「キリール・ヴァシーリエヴィチ・リュートフ」というロシア人名を名乗って素性を隠し、「赤い騎兵」紙への戦況の報告、前線のコサック兵の政治教育を行った。従軍記者となったバーベリはガリツィア、ヴォルイニといったユダヤ人が多く居住する地域を転々とするが、ポーランドからの解放を待ち望んでいたコサック兵が行った残虐な行為を目の当たりにし、革命自体に疑問を抱くようになる。漠然とした革命意識を抱いていたバーベリは前線の光景に衝撃を受け、1920年末までにオデッサに帰郷する。創作を中断していた時期の社会経験はバーベリの作風に影響を与え、後年に自分の思想を明瞭に表現できるようになったと述懐している。こうした社会活動の間、1919年にバーベリはエヴゲーニヤと結婚した。 オデッサの国立出版所に勤務した後、1921年にコーカサスのバトゥミ近郊で療養生活を送る。1923年から創作活動を再開したバーベリは、雑誌『レフ』に『塩』『手紙』『ドルグショーフの死』『王様』の4つの短編を発表した。翌1924年にバーベリはモスクワに移る。
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