後期堀田氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:56 UTC 版)
延享3年(1746年)、松平乗祐と入れ替わる形で、出羽国山形藩から老中堀田正亮(正信の弟である正俊の孫)が10万石で入封。その後は幕末まで堀田家の支配で定着した。佐倉藩の歴史においては、正亮以後の堀田氏を「後期堀田氏」とも称する。 正亮は老中首座をつとめ、宝暦10年に1万石が加増されて11万石となった。このうち4万石程度は出羽国村山郡の所領であり、延享4年(1747年)に柏倉陣屋(現在の山形市柏倉)が置かれて分領の統治にあたった。 堀田正亮は、前期堀田氏の改易と結びつける伝承が生じていた佐倉惣五郎父子の慰霊を行い、以後の藩主も継承した。佐倉藩堀田家が公認することにより、佐倉惣五郎の義民伝説が発展することになった。 2代藩主堀田正順は、奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代などの要職を歴任した。一方藩財政はこの頃から窮状を見せるようになった。天明3年(1783年)には、浅間山の噴火や利根川の洪水を背景として、城付領で年貢減免などを求める百姓一揆が発生した。寛政4年(1792年)、藩校として学問所(のちに温故堂、成徳書院などに改称)を設立した。 第4代藩主堀田正愛は、勝手方主役向藤左衛門を推進者として、「三ツ割の法」など財政改革を中心とする藩政改革を進めた。
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