後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡
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「パーンディヤ朝」の記事における「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」の解説
しかし、12世紀末になってチョーラ朝がすっかり弱体化してくると、ジャターヴァルマン・クラーシェカラ(位1190 - 1216)がパーンディヤ朝を再建する。これ以降を後期パーンディヤ朝と呼ぶ。次のマーラヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1216 - 1238)は、チョーラ朝を打ち破って心臓部のタンジャブールまで侵攻した。パーンディヤ朝の攻勢に苦しむチョーラ朝は、北西隣のカルナータカ州中南部を支配していたホイサラ朝に救援を求めた。もとよりカーヴェリー川流域の支配をねらうホイサラ朝は、チョーラ朝と同盟してパーンディヤ朝と戦うことになるが、ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1251 - 1268)は、ホイサラ・チョーラ連合軍を打ち破って、コロマンデル海岸をネロール地方まで北上し、チョーラ朝を首の皮一枚までのところまで追い詰めた。ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世は、「寺院を黄金で覆った王」という別名を持ち、海外交易の振興によって経済的にも繁栄した。その一例として、『元史』巻210にも、「馬八兒(マバル)の国王は算弾と呼ばれ」との記録も見られ、中国との盛んな交易を物語っている。継いだマーラヴァルマン・クラーシェカラ1世(位1268 - 1309)は、ついにチョーラ朝に止めを刺してこれを滅ぼし、その版図を併呑した。パーンディヤ朝の繁栄は続き、マルコ・ポーロもその繁栄ぶりについて記述している。 しかし、晩年になると、息子たちヴィーラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1345)とスンダラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1327)による王位継承争いが起こり、クラーシェカラ1世自身もスンダラ・パーンディヤによって殺害された。パーンディヤ朝は分裂状態に陥った。時同じくして北インドには、強力なハルジー朝が興り、スンダラ・パーンディヤは、ハルジー朝に援軍を求めた。ハルジー朝のマリク・カーフールは南インドへ遠征軍を率い、ヤーダヴァ朝、カーカティヤ朝、ホイサラ朝の君主を次々に屈伏させてデリーへ連行し、パーンディヤ朝は、1310年、首都マドゥライに侵攻を受けた。ハルジー朝の軍勢が引き返すと、今度はホイサラ朝とカーカティヤ朝の草刈場のようになり、カーカティヤ朝には、カーヴェリ川下流域のティルチラパッリまで進入を許し、チョーラ朝の故地の大半を奪われるような状況にまで陥った。もはやパーンディヤ朝は王朝の実態を留めていなかった。14世紀中葉、ヴィジャヤナガル朝が興るとパーンディヤ朝の版図のほとんどは吸収され、マドゥライにはイスラム王国が建国された。ただし、パーンディヤ家自身は17世紀までティルチラパッリ周辺の小領主として生き残ったようである。
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