後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡の意味・解説 

後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 20:57 UTC 版)

パーンディヤ朝」の記事における「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」の解説

しかし、12世紀になってチョーラ朝がすっかり弱体化してくると、ジャターヴァルマン・クラーシェカラ(位1190 - 1216)がパーンディヤ朝再建する。これ以降後期パーンディヤ朝と呼ぶ。次のマーラヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1216 - 1238)は、チョーラ朝打ち破って心臓部タンジャブールまで侵攻したパーンディヤ朝攻勢苦しチョーラ朝は、北西隣のカルナータカ州中南部支配していたホイサラ朝救援求めたもとよりカーヴェリー川流域支配をねらうホイサラ朝は、チョーラ朝同盟してパーンディヤ朝と戦うことになるが、ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1251 - 1268)は、ホイサラ・チョーラ連合軍打ち破ってコロマンデル海岸ネロール地方まで北上しチョーラ朝首の皮一枚までのところまで追い詰めた。ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世は、「寺院黄金覆った王」という別名を持ち海外交易振興によって経済的に繁栄した。その一例として、『元史』巻210にも、「馬八兒(マバル)の国王は算弾と呼ばれ」との記録見られ中国との盛んな交易物語っている。継いだマーラヴァルマン・クラーシェカラ1世(位1268 - 1309)は、ついにチョーラ朝止め刺してこれを滅ぼし、その版図併呑した。パーンディヤ朝繁栄続きマルコ・ポーロもその繁栄ぶりについて記述している。 しかし、晩年になると、息子たちヴィーラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1345)とスンダラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1327)による王位継承争い起こり、クラーシェカラ1世自身もスンダラ・パーンディヤによって殺害された。パーンディヤ朝分裂状態陥った。時同じくして北インドには、強力なハルジー朝興り、スンダラ・パーンディヤは、ハルジー朝援軍求めたハルジー朝マリク・カーフール南インド遠征軍率いヤーダヴァ朝カーカティヤ朝ホイサラ朝君主次々屈伏させてデリー連行しパーンディヤ朝は、1310年首都マドゥライ侵攻受けたハルジー朝軍勢が引き返すと、今度ホイサラ朝カーカティヤ朝草刈場のようになり、カーカティヤ朝には、カーヴェリ川下流域のティルチラパッリまで進入許しチョーラ朝故地大半奪われるような状況にまで陥った。もはやパーンディヤ朝王朝実態留めていなかった。14世紀中葉ヴィジャヤナガル朝興るパーンディヤ朝版図のほとんどは吸収されマドゥライにはイスラム王国建国された。ただし、パーンディヤ自身17世紀までティルチラパッリ周辺小領主として生き残ったようである。

※この「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」の解説は、「パーンディヤ朝」の解説の一部です。
「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」を含む「パーンディヤ朝」の記事については、「パーンディヤ朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡」の関連用語

後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのパーンディヤ朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS