強盗騎士ルノー・ド・シャティヨン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「強盗騎士ルノー・ド・シャティヨン」の解説
1153年、寡婦となったコンスタンス女公は、1147年に一旗揚げにシリアに到来し征服欲を満たす機会を求めていた「強盗騎士」ルノー・ド・シャティヨンと結婚し、ルノーが新たな公となった。ルノーは些細な口実を元に東ローマ帝国の領土であったキプロス島を攻略した後、農村や教会、修道院を残らず略奪し住民を虐殺し、キプロスは再起不能の打撃を受けた。 これにより皇帝マヌエル1世コムネノスによるアンティオキアへの懲罰としての遠征を招いた。ルノーは抵抗は無益と悟り、マヌエル1世の陣営に乞食の様な格好で現れ卑屈に許しを乞い、東ローマ帝国への臣従を誓わされた。1159年、マヌエル1世は君主としてアンティオキアに入城するデモンストレーションを行った。以後、東ローマ帝国はしばらくの間シリアで強い影響力を発揮し、ヌールッディーンも十字軍国家も互いに手が出ない状態になる。 1160年にルノーはアレッポ北部を略奪しようとして囚われ、ヌールッディーンの捕虜となった。コンスタンスはルノー救出を訴えたが、公国の貴族たちはコンスタンスと前夫レーモンの子ボエモン3世(英語版)を次の公爵とするよう主張しコンスタンスと対立した。ルノーは結局公位(妻コンスタンスの摂政位)を失い、1163年にボエモン3世が即位した。ボエモン3世は皇帝マヌエル1世の宗主権を認め皇帝の姪と結婚し、正教会の総主教をアンティオキアに迎え入れた。また、マヌエル1世の皇后エイレーネーが1159年に死去すると、2度目の妻としてコンスタンスとレーモンの娘マリー・ダンティオケが選ばれた。マリーはマヌエル1世の息子(アレクシオス2世コムネノス)を産み、その摂政として東ローマで権勢をふるった。 ルノーは16年後釈放されてエルサレムに現れ、ムスリムとの徹底抗戦を主張して各地を略奪し王国内の穏健派からもムスリムからも忌み嫌われたが、1187年、サラーフッディーン(サラディン)の軍にハッティンの戦いで大敗し処刑された。
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