張学良の腹心へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/30 06:54 UTC 版)
張作霖死後の1928年(民国17年)7月、東北臨時保安委員会が組織され、王樹翰も委員となる。また、奉天派の代表として北京に赴き、国民革命軍との和平交渉にも当たった。同年末の易幟を経た翌1929年(民国18年)、東北政務委員会が組織されるとその委員となり、あわせて張学良配下として東北辺防軍司令長官公署秘書庁庁長に任ぜられた。 1930年(民国19年)12月、国民政府委員、中国国民党中央政治会議委員となる。翌年4月、陸海空軍副司令行営が北平に成立すると、副司令行営秘書長に任ぜられた。同年6月には国民政府文官長を勤めている。1932年(民国21年)、軍事委員会北平分会秘書長に任ぜられ、翌年5月には、行政院政務整理委員会政務処処長もつとめている。1935年(民国34年)11月、国民党第5期中央監察委員に当選した。しかし、日中戦争(抗日戦争)勃発後に政界を引退し、天津に蟄居している。その後、重慶に移った。 戦後の1947年(民国36年)10月に、王樹翰は東北行轅政務委員会副主任委員となり、その翌年7月には総統府国策顧問に招聘されたが、いずれも実権の無い閑職であった。中華人民共和国成立後は大陸に留まり、中央文史研究館館員に任ぜられている。1955年2月8日、天津市にて病没。享年81。
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