張学良の腹心
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1925年(民国14年)9月、臧式毅は江蘇督弁に任命された楊宇霆に随って、南京に入り、省署参謀長に任命された。しかし、同年10月に勃発した奉浙戦争で、楊宇霆は孫伝芳に敗れて北方へ退却する。この際に臧式毅は逃げ遅れて孫伝芳軍に捕縛されてしまった。 約半年後に釈放されて奉天に戻ると、奉天派は郭松齢の兵変による損害を回復しようとする段階にあった。臧式毅は遼寧省財政庁長に任命され、財政改革を推進した。1926年(民国15年)12月1日に、張作霖が安国軍総司令に推戴されると、臧式毅は公署参議として、奉軍留守司令を委ねられている。 1928年(民国17年)6月4日、張作霖爆殺事件が起きると、臧式毅は張学良に密かに連絡して瀋陽へ呼び戻した。さらに、様々な雑務を取り仕切って、奉天派中枢の動揺を抑えている。易幟後の1929年(民国18年)1月に、張学良が楊宇霆・常蔭槐を粛清する。張学良は後事を臧式毅に託し、奉天兵工廠督弁に任命した。1930年(民国19年)、臧式毅は遼寧省政府主席に任命された。同年に張学良が中原大戦参戦のために出撃すると、臧式毅が後方留守総司令を務めた。
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