張学良を支えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:37 UTC 版)
まもなく、于学忠は山東省に帰郷していたが、事情を知った張作霖・張学良父子に北平へ呼び寄せられた。面会後、奉天派に加入して馮玉祥より奪還した元部下らをあてがわれ、鎮威軍第4方面軍団第20軍軍長に任ぜられた。1928年(民国17年)6月、張作霖爆殺事件の後に于学忠は東北へ逃れ、東北保安司令長官公署軍事参議官兼臨綏駐軍司令として山海関を守る。同年末に張学良が易幟を行うと、于学忠はそのまま地位に留任しつつ国民革命軍に組み込まれた。 1930年(民国19年)の中原大戦では、臨綏駐軍司令として山海関、綏中一帯を防備し、9月18日に張学良が関内に進軍した際に于学忠は第1軍を率いて北京に進駐した。中原大戦で蔣介石が勝利すると、平津衛戍司令に任ぜられた。なお張学良の進軍前に、蔣介石は臨楡駐軍参謀長の蔣洞学・陳貫群を介して于学忠の買収を企図し、早期から中原大戦に参加させようとしたが、于学忠はこれを拒否し、張学良が正式に参戦を表明するまで決して動かなかった。更に蔣介石は、何成浚・陶敦礼・林樹藩などを介して、于学忠隷下の臨沂駐在第二十三旅旅長の馬廷福とその隷下の団長の孟百孚・安福魁らを買収し反逆させようともしたが、これもすぐに于学忠に発見され、全員逮捕された(馬廷福事件)。1931年(民国20年)7月、石友三が突然反蔣介石の兵変を起こすと、于学忠はその鎮圧に参加している。
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