建部賢文の子孫とは? わかりやすく解説

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建部賢文の子孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:51 UTC 版)

建部氏」の記事における「建部賢文の子孫」の解説

建部賢文建部伝内1522年 - 1590年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、青蓮院流御家流)の能書家として高名であった人物である。賢文の子孫は江戸幕府仕え旗本として数家立てている(『寛政重修諸家譜編纂時点で9家が存続)。 『寛永系図』では、この建部家佐々木氏近江源氏)の流れ汲み、もとは伊庭氏称していたが、近江国神崎郡建部郷に住したために建部氏称したとされている。ただし、佐々木氏との具体的な接続記されていない末裔建部賢明正徳5年1715年)に編纂した六角佐々木山内流建部氏伝記』(以下『建部氏伝記』)によれば佐々木時信六角時信)の三男山内信詮が始祖で、信詮の孫の詮秀が建部氏改めたという。『寛政重修諸家譜』は建部家から提出された『建部氏伝記』に依拠しているが、建部氏嫡流である源八秀明六角家滅亡後織田信長仕え天正4年1576年)に石山合戦戦死したために絶えたという。 建部賢文秀明叔父といい、もともと近江六角義賢仕えていたが、のちに豊臣秀吉仕えた。賢文の三男建部昌興能書家で伝内の名を継ぎ徳川家康徳川秀忠右筆として仕えた。「建部伝内」の書法は「伝内流」と称され一流派をなした。 昌興の子・直昌も「伝内」を称して右筆務めたが、直昌の嫡子・昌孝は大番転じ1000石の旗本となっている。建部氏一族からは賢豊(直昌の弟)・直恒(直昌の弟)・昌英(直昌の弟)・昌勝(昌孝の弟)らが右筆として幕府仕えてそれぞれ家を立てた建部一族からは、数学者建部賢明1661年 - 1716年)・建部賢弘1664年 - 1739年)の兄弟建部直恒の二男三男)が出ている。兄弟関孝和について数学学び、孝和とともに大成算経』を編纂した。賢弘は将軍吉宗仕えて信任厚く暦術顧問とされ、また「享保日本総図」の作成主催した。その著「綴術算経」は和算方法論述べた唯一の書物として知られる賢明当時混乱生じていた佐々木一族の系図(『江源武鑑』を沢田源内による偽書として激しく批判している)を明らかにするべく『建部氏伝記』を編纂したことで系図学の上でも知られる。『建部氏伝記』は賢明・賢弘らの数学研究営為を知る史料でもある。

※この「建部賢文の子孫」の解説は、「建部氏」の解説の一部です。
「建部賢文の子孫」を含む「建部氏」の記事については、「建部氏」の概要を参照ください。

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