建部賢文の子孫
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建部賢文(建部伝内、1522年 - 1590年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、青蓮院流(御家流)の能書家として高名であった人物である。賢文の子孫は江戸幕府に仕え、旗本として数家を立てている(『寛政重修諸家譜』編纂時点で9家が存続)。 『寛永系図』では、この建部家は佐々木氏(近江源氏)の流れを汲み、もとは伊庭氏を称していたが、近江国神崎郡建部郷に住したために建部氏を称したとされている。ただし、佐々木氏との具体的な接続は記されていない。末裔の建部賢明が正徳5年(1715年)に編纂した『六角佐々木山内流建部氏伝記』(以下『建部氏伝記』)によれば、佐々木時信(六角時信)の三男・山内信詮が始祖で、信詮の孫の詮秀が建部氏に改めたという。『寛政重修諸家譜』は建部家から提出された『建部氏伝記』に依拠しているが、建部氏の嫡流である源八郎秀明は六角家滅亡後織田信長に仕え、天正4年(1576年)に石山合戦で戦死したために絶えたという。 建部賢文は秀明の叔父といい、もともと近江の六角義賢に仕えていたが、のちに豊臣秀吉に仕えた。賢文の三男・建部昌興も能書家で伝内の名を継ぎ、徳川家康・徳川秀忠に右筆として仕えた。「建部伝内」の書法は「伝内流」と称されて一流派をなした。 昌興の子・直昌も「伝内」を称して右筆を務めたが、直昌の嫡子・昌孝は大番に転じ、1000石の旗本となっている。建部氏一族からは賢豊(直昌の弟)・直恒(直昌の弟)・昌英(直昌の弟)・昌勝(昌孝の弟)らが右筆として幕府に仕えてそれぞれ家を立てた。 建部一族からは、数学者の建部賢明(1661年 - 1716年)・建部賢弘(1664年 - 1739年)の兄弟(建部直恒の二男・三男)が出ている。兄弟は関孝和について数学を学び、孝和とともに『大成算経』を編纂した。賢弘は将軍吉宗に仕えて信任厚く暦術の顧問とされ、また「享保日本総図」の作成を主催した。その著「綴術算経」は和算の方法論を述べた唯一の書物として知られる。賢明は当時混乱が生じていた佐々木一族の系図(『江源武鑑』を沢田源内による偽書として激しく批判している)を明らかにするべく『建部氏伝記』を編纂したことで系図学の上でも知られる。『建部氏伝記』は賢明・賢弘らの数学研究の営為を知る史料でもある。
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