建都以降の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 04:34 UTC 版)
メシカはテスココ湖の上にチナンパと呼ばれる開拓地を造り、運河をはりめぐらした。カヌーや船で周辺の町と交易を行い、町は急速に成長した。テスココ湖は他国の侵略からテノチティトランを守るための防壁としても働いた。 テスココ湖の周辺では、東のテスココを都とするアコルワと、西のアスカポツァルコを都とするテパネカの二大集団があった。メシカはテパネカの支配者であるテソソモクに従属した。 発展したテノチティトランでは1372年に最初の支配者で、コルワカンの領主の娘(生贄になった人物とは別)を母とするアカマピチトリが即位した。その子のウィツィリウィトルはテソソモクの娘と結婚し、第3代支配者となるチマルポポカが生まれた。ウィツィリウィトルはまたクァウナワクの支配者の娘と結婚して第5代支配者となるモテクソマ1世が生まれた。 テパネカでテソソモクが没すると後継者争いがおきた。チマルポポカは争いにまきこまれて殺され、ウィツィリウィトルの弟のイツコアトルがその後をついだ。テパネカで新たに即位したマシュトラに対して、メシカ(テノチティトラン)、アコルワ(テスココ)、ウェショツィンカ、およびテパネカの反マシュトラ勢力(トラコパン)が1428年に同盟してアスカポツァルコのテパネカを破った。ウェショツィンカを除く3つの集団はその後も同盟を保ち、征服地からの貢納品はテノチティトラン:2、テスココ:2、トラコパン:1の割合で分けることに決められた。これがアステカ三国同盟、すなわちアステカ帝国である。帝国が拡大するにつれて、三国同盟のうちテノチティトランの比重が時とともに高まっていき、実質上メシカ帝国になっていった(以下の歴史はアステカを参照)。
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