建部昌興とは? わかりやすく解説

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建部昌興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 05:26 UTC 版)

 
建部 昌興
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正8年(1580年[1][2]
死没 明暦元年4月18日1655年5月23日[1][2]
改名 賢茂、昌興、宗西[1][2]
別名 伝内、伝右衛門[3][1][2]
戒名 宗西[1][4]
墓所 能覚寺無量院[4]
幕府 江戸幕府 右筆
主君 長束正家佐野綱正徳川家康秀忠家光家綱
氏族 建部氏
父母 父:建部賢文、母:井上氏[2]
兄弟 政秀、高昌、宇野六右衛門の妻、昌興、衆三、安都、斎藤長右衛門の妻[2]
高山盛聡の娘[2]
直昌、昌明、賢豊、直恒、昌英、真野正治の妻、金田正長の妻、女子[5]
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建部 昌興(たけべ まさおき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、書家

経歴

父は伝内流の祖として知られた能書家の建部賢文天正18年(1590年)13歳の時に父が死去したため、母方の井上氏の元で書を学ぶ。長じて京都に出て長束正家佐野綱正の元にいたこともあったが、慶長元年(1596年伏見城徳川家康に召されて右筆として仕えた。知行500石。家中では松平忠吉ら一門連枝に書を伝え、伝内流は御家流の栄誉を得た[3][1][2]

慶長5年(1600年会津征伐に従軍し、戦後320石余を加増される[注釈 1]。慶長20年(1615年大坂夏の陣に従軍。この時、自害した古田重然の遺品のうち頓阿写の『続千載和歌集』を賜っている。徳川秀忠の代になっても重用され、秀忠が将軍職を辞して江戸城西の丸に移るとこれに従う。寛永3年(1626年)秀忠・家光の上洛に従い、上洛後に武家の有職故実を書き記している。寛永11年(1634年)の上洛にも供奉した[2]明暦元年(1655年)致仕して宗西と号し、同年76歳で没[1][2]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g 『日本人名大辞典』, § 建部昌興.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』, p. 69.
  3. ^ a b 黒田 1999.
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 68–69.
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 69–70.

参考文献




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