建部昌興
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正8年(1580年)[1][2] |
死没 | 明暦元年4月18日(1655年5月23日)[1][2] |
改名 | 賢茂、昌興、宗西[1][2] |
別名 | 伝内、伝右衛門[3][1][2] |
戒名 | 宗西[1][4] |
墓所 | 能覚寺無量院[4] |
幕府 | 江戸幕府 右筆 |
主君 | 長束正家、佐野綱正、徳川家康、秀忠、家光、家綱 |
氏族 | 建部氏 |
父母 | 父:建部賢文、母:井上氏[2] |
兄弟 | 政秀、高昌、宇野六右衛門の妻、昌興、衆三、安都、斎藤長右衛門の妻[2] |
妻 | 高山盛聡の娘[2] |
子 | 直昌、昌明、賢豊、直恒、昌英、真野正治の妻、金田正長の妻、女子[5] |
建部 昌興(たけべ まさおき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、書家。
経歴
父は伝内流の祖として知られた能書家の建部賢文。天正18年(1590年)13歳の時に父が死去したため、母方の井上氏の元で書を学ぶ。長じて京都に出て長束正家、佐野綱正の元にいたこともあったが、慶長元年(1596年)伏見城の徳川家康に召されて右筆として仕えた。知行500石。家中では松平忠吉ら一門連枝に書を伝え、伝内流は御家流の栄誉を得た[3][1][2]。
慶長5年(1600年)会津征伐に従軍し、戦後320石余を加増される[注釈 1]。慶長20年(1615年)大坂夏の陣に従軍。この時、自害した古田重然の遺品のうち頓阿写の『続千載和歌集』を賜っている。徳川秀忠の代になっても重用され、秀忠が将軍職を辞して江戸城西の丸に移るとこれに従う。寛永3年(1626年)秀忠・家光の上洛に従い、上洛後に武家の有職故実を書き記している。寛永11年(1634年)の上洛にも供奉した[2]。明暦元年(1655年)致仕して宗西と号し、同年76歳で没[1][2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
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