府中三人衆時代とは? わかりやすく解説

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府中三人衆時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:05 UTC 版)

佐々成政」の記事における「府中三人衆時代」の解説

天正3年1575年9月織田信長越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面軍団長とした。越前12郡のうち8郡は柴田勝家府中近辺の2郡は成政、前田利家不破光治の3人(府中三人衆)に与えられた。府中2郡はおよそ10万石だったとされ、その後地域政務を常に3人の連名行っているところから領地分けず収入のみを分配した相給知行であった。成政は小丸城築いて居城とした。この頃の成政は、勝家・利家・光治と行動伴にすることが多かったが、府中三人衆勝家与力とはいえ半ば独立した織田軍の遊撃部隊存在でもあった。北陸上方往復することが多く上杉氏対峙しながら北陸での戦い落ち着くとしばしば畿内呼び出され石山合戦播磨国平定荒木村重征伐有岡城の戦い)などにも従軍している。この時、府中三人衆荒木一族処刑を命ぜられ実行している。 天正5年1577年8月北国向けて出陣し能登国侵入した上杉勢攻めるために柴田勝家と共に加賀国侵攻したが、七尾城陥落受けて同年10月撤退している(手取川の戦い)。しかし、手取川の戦いからわずか半年天正6年1578年3月上杉謙信死去する次第形勢逆転する天正8年1580年3月信長石山本願寺講和結ばれた途端に北陸方面活発化し、柴田勝家一向一揆制圧同年11月勝家がついに加賀平定すると、それに従軍して能登国越中国現在の富山県)にも進出した

※この「府中三人衆時代」の解説は、「佐々成政」の解説の一部です。
「府中三人衆時代」を含む「佐々成政」の記事については、「佐々成政」の概要を参照ください。

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