師匠團平との諍いと別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:07 UTC 版)
明治23年(1890年)師匠團平と大隅太夫の一行が長崎へ巡業へ行った折、榎津町の榎津館にて團平がインフルエンザに罹ったため、源吉が長崎へ駆けつけ、師匠の介抱の傍ら、大隅太夫を弾いた。久々に大隅太夫を弾いた源吉は「師匠(團平)の修行で技芸も上達して長崎興行中は豪い聲で三味線が飛ばされ漸く熊本興行でシックリ合ふやうになりました」と語っている。 その熊本は大当たりで28日間の大入り続きであったために、源吉は師匠團平へ「熊本は大当たりの金の代りに鉛ですが何うか斯うか勤まりましたからお欣び下さい」と手紙を出したところ、師匠團平は「源吉は師匠を侮蔑にする」と激怒し、返事もしなかった。 巡業を打ち上げ帰阪した源吉であったが、師匠團平が彦六座に出勤していたため「病気の為に無理に長崎から戻つて来て其方へ挨拶もなく(彦六座)へ出勤するのは不都合ではありませんか」と忠告したところ「貴様のやうな恩知らずに言葉を交すも汚はしい」と売り言葉に買い言葉で喧嘩となり、源吉は生涯師匠の家へは足も踏み入れないと決心して神戸へ向かった。 その事件から二年後、「綿蠻たる黄鳥丘隅に止まる人として止まるを知らざれば鳥にだも若かざらんや親を持ち師を持ち妻子を持ち行年を持何を以て身を立つるや返答聞きたし」と師匠團平から手紙を貰い、自らの非を悟り、師匠團平へ謝罪し、再び師弟の関係に戻ることができた。 しかし、師匠團平は明治31年(1898年)4月1日稲荷座興行の初日に「志渡寺」を弾きながら脳溢血を起こし、病院へ運ばれる途中で落命した。
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