布張り窓の聖母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/12 00:13 UTC 版)
| イタリア語: La Madonna dell'Impannata | |
| 作者 | ラファエロ・サンツィオ |
|---|---|
| 製作年 | 1511年-1512年 |
| 種類 | 油彩、板 |
| 寸法 | 160 cm × 126 cm (63 in × 50 in) |
| 所蔵 | パラティーナ美術館、フィレンツェ |
『布張り窓の聖母』[1](ぬのばりまどのせいぼ、伊: La Madonna dell'Impannata[1][2])として知られる『聖母子と聖エリサベト、マグダラのマリア、洗礼者ヨハネ』(せいぼしとせいエリサベト、マグダラのマリア、せんれいしゃヨハネ、伊: La Madonna col Bambino e i santi Elisabetta, Maddalena e Giovanni Battista[2], 英: The Madonna and Child with Saints Elizabeth, Magdalene and John the Baptist)は、盛期ルネサンスのイタリアの巨匠ラファエロ・サンツィオが1511年から1512年に制作した絵画である。油彩。フィレンツェの貴族で、教皇庁の最も有力な銀行家の1人であり、ラファエロのパトロンであったビンド・アルトヴィーティの発注によって制作された。ローマ時代の作品で、ジョルジョ・ヴァザーリは著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の中で本作品について触れている[2]。よく知られる『布張り窓の聖母』という通称は画面の中にイタリア語で「布張り窓」を意味する「インパンナータ」(impannata)が描かれたことに由来する[2][3][4]。現在はフィレンツェのパラティーナ美術館に所蔵されている[1][2][3][5]。またバークシャー州のウィンザー城とベルリンの国立版画素描館に準備素描が所蔵されている[2][3][4]。
制作背景
ヴァザーリによると本作品を発注したのは、フィレンツェの裕福な貴族であり銀行家のビンド・アルトヴィーティである[2]。ビンドの父アントニオ・アルトヴィーティ(Antonio Altoviti)はフィレンツェからローマに移住し、一族の銀行業の基礎を築いた人物であった。アントニオは1487年にローマ教皇インノケンティウス8世の姪にあたるディアノーラ・ディ・クラレンツァ・チーボ(Dianora di Clarenza Cibo)と結婚した。その後は教皇の財務官や教皇庁造幣局局長を務めた。1491年11月26日にアントニオの息子として生まれたビンドは父の事業を拡大し、20代前半には同じくフィレンツェの貴族、ソデリーニ家出身のフィアンメッタ・ソデリーニ(Fiammetta Soderini)と結婚した[6]。教養があり芸術的感性に優れていたビンドは芸術のパトロンとしても知られていた。彫刻家や建築家としても活躍したミケランジェロ・ブオナローティはビンドにフレスコ画『ノアの酩酊』(L'Ebbrezza di Noè)のカルトンを贈り、また後にヴァザーリによって彩色されたヴィーナスの素描を制作した[6]。本作品はおそらくビンドとフィアメッタとの結婚を記念するためにラファエロに依頼された[2]。
作品
聖母子を中心に洗礼者ヨハネと2人の聖女が描かれている。聖母マリアは室内で聖女たちと向き合い、幼児のイエス・キリストを年老いた聖女に抱いてもらおうとしている。構図の中心にいるのは幼児のキリストである[2]。聖女はキリストを抱き上げるために跪き、キリストの柔らかな両太股の下に手を伸ばし、キリストも聖母マリアにしがみつきながら聖女の太股の上に足を下ろしている。その横では若い聖女がかがんで立ち、跪いた聖女の肩に右手を置きながら、まるでキリストをくすぐるかのように左手の指先で幼児の脇腹に触れている。この行動はキリストを面白がらせ、上半身をそらせて若い聖女の方に笑顔を見せている。この陽気な描写にヴァザーリは心を奪われ、「彼(キリスト)の裸体と顔立ちは実に美しく、笑い声は見る者を元気づけるほどだった」と記した[2]。少年として描かれた洗礼者ヨハネは画面右下でヒョウの毛皮の上に座り、鑑賞者の側に視線を向けながら、左手の人差し指で愛情深い出会いを示している[2]。簡素な室内は垂れ下がった大きな天幕が壁の大部分を覆っている。画面右端はアーチ状の通路となっており、奥に絵画の名の由来となった「布張り窓」が見える。窓は布あるいは紙で覆われ、柔らかな光が室内に差し込んでいる。
絵画の基盤となっているのはミケランジェロと古代彫刻である。色彩は巧みに調整され、流れるような衣装の衣文は豊潤さを保っており、甘美さを湛えるそれぞれの表情は、入念な観察のうえで感情が表現され、当初からラファエロの特質として認められていた「優美さ」を形成している[2]。
画面左に配置された2人の聖女はどちらもアトリビュートが付随していないため、どのような由来を持つ聖人であるのか判然としない。ヴァザーリは老いた聖女を聖母の母である聖アンナと見なしたが[2][3]、現在は聖エリサベトと見なされることが多い[2][3][5]。若い聖女はあごひも付きの珍しい頭飾りを身に着けている以外に特徴はなく、アレクサンドリアの聖カタリナや[2][3][5]、ビンドが特に敬愛したマグダラのマリアと呼ばれる[2]。また聖ビルギッタである可能性も指摘されている[3]。
制作過程
聖家族の一般的な図像とは対照的に本作品の構図は斬新である。構図はラファエロによるものだが、制作には工房の助手たちの協力によって制作された[3]。1510年代半ばはラファエロの生涯で最も多忙な時期にあたり、作品のほとんどは弟子たちによって完成された。本作品においてもその点は変わらず、一部の研究者によるとおそらく画面の大部分が助手たちによって描かれた[3][5]。しかし少なくとも主要人物のうち、幼児のキリストや[2][5]、聖エリサベト、あるいはその両方にラファエロの手が加わっていると考える者もいる[5]。
1938年に実施されたX線撮影を用いた科学的調査は、制作途中の絵画に大きな変更が加えられたことを明らかにした。現在、画面右下には洗礼者ヨハネが描かれているが、調査の結果、その下に幼い洗礼者ヨハネを抱いた聖ヨセフあるいは聖ヨアキムが描かれていることが判明したのである[2][3][4]。ベルリンの国立版画素描館所蔵の準備素描には幼児キリストと並んで洗礼者ヨハネの習作が描かれており、当初の構想では洗礼者ヨハネが描かれるはずであった。しかしその構想は後に変更されることとなった。そして制作がかなり進められた後になって、もともとあった構図が再び採用され、すでに描かれていた聖人の上に現在の洗礼者ヨハネが描かれたと考えられる[4]。この調査結果はまた構図の変更によって制作期間が長期にわたったことを示唆している[4]。
制作年代
制作年代はロイヤル・コレクション所蔵の準備素描と最も近い、フランクフルトにあるシュテーデル美術館所蔵の準備素描「騎乗した戦士の習作」(Studio di un guerriero a cavallo)との比較から決定される[4]。このシュテーデル美術館の素描は、ラファエロが「ヘリオドロスの間」のフレスコ画『教皇レオ1世とアッティラの会談』(L'Incontro di Leone Magno con Attila )のために用意したものである[4][8]。「ヘリオドロスの間」は「署名の間」を完成させたのちに着手された。したがって本作品の準備素描が作成された時期は、「署名の間」を完成させたことでローマでの名声を確立しつつあるラファエロが、「ヘリオドロスの間」の準備を進めていた時期とちょうど重なることになる。それはまた1513年2月に教皇ユリウス2世が崩御する以前でもあった。以上から、ラファエロが本作品の制作に着手したのは1512年頃と考えられる[4]。
来歴
完成した絵画は1515年頃にフィレンツェのボルゴ・サンティ・アポストリ通りにあるビンド家の邸宅に送られた[2]。反メディチ派の貴族であったビンドは、特に1537年に起きた僭主アレッサンドロ・デ・メディチの暗殺後、18歳でフィレンツェ公国を継承したコジモ1世と対立関係にあった。ビンドはメディチ家のライバルであったストロッツィ家出身のピエロ・ストロッツィを支援したが、この人物はフランス軍の将軍で、1554年のマルチァーノの戦いではシエナ共和国を防衛してフィレンツェと戦った。ビンド自身もシエナ共和国を支援し、さらに息子のジャンバッティスタ・アルトヴィーティ(Giambattista Altoviti)を隊長とする部隊を編成してフィレンツェと戦わせた[6]。このためビンドは反逆者と見なされ、トスカーナ地方に所有していた財産を没収された。このとき本作品も没収されてメディチ家のコレクションに加えられ、ヴァザーリが装飾したヴェッキオ宮殿の新しい居室にある礼拝堂の祭壇に設置された[2][3]。1589年からはウフィツィ美術館のトリブーナで展示され、1697年にはピッティ宮殿に移された。1799年にナポレオン軍によって持ち去られ[3]、ナポレオン没落後の1815年まで返還されなかった[5]。1984年および2015年から2017年にかけて修復が行われた[3]。
素描
準備素描はイギリスのロイヤル・コレクションとベルリン国立版画素描館のものが知られる。ロイヤル・コレクションの素描は聖母マリアと聖エリサベトの習作を中心に幼児のキリストや若い聖女も描いている。ラファエロ研究の第一人者として知られる美術史家オスカー・フィッシェルはこの素描を助手の1人ジャンフランチェスコ・ペンニの作と見なした(1898年)。さらにその後、白く塗られたハイライトを後世の加筆ないし修正と考えた(1913年-1941年)。この見解はレオポルド・エットリンガーによって支持されたが、ほとんどの学者はラファエロが描いたものであると認めている[4]。ベルリンの素描は少年の洗礼者ヨハネと幼児キリストの習作である。ロイヤル・コレクションの素描では簡素であったキリストの姿がより洗練されており、その過程で洗礼者ヨハネのポーズが考案されたことを示している[4]。
複製
ヴェッキオ宮殿にある礼拝堂には、本作品の複製がメディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアヌスに扮したコジモ・デ・メディチとコジモ1世の肖像画とともに設置されている。フィレンツェのサント・スピリト聖堂内にあるコルシーニ礼拝堂の祭壇にはバロック期に活動したフィレンツェの画家フランチェスコ・ボッティによって制作された複製が設置されている。
ギャラリー
-
ヴェッキオ宮殿所蔵の複製
-
フランチェスコ・ボッティによる複製 サント・スピリト聖堂所蔵
脚注
- ^ a b c 『西洋絵画作品名辞典』 1994, p. 863。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “Madonna col Bambino e i santi Elisabetta, Maddalena (?) e Giovanni Battista detta “Madonna dell’Impannata””. ウフィツィ美術館公式サイト. 2025年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “Raphael”. Cavallini to Veronese. 2025年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “The Virgin and Child with St Elizabeth (?) and another female saint c.1512”. ロイヤル・コレクション・トラスト公式サイト. 2025年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Madonna dell'Impannata”. Web Gallery of Art. 2025年10月7日閲覧。
- ^ a b c “ALTOVITI, Bindo. Dizionario Biografico degli Italiani - Volume 2 (1960)”. Treccani. 2025年10月7日閲覧。
- ^ “Bindo Altoviti”. ナショナル・ギャラリー・オブ・アート公式サイト. 2025年10月7日閲覧。
- ^ a b “Study of a Warrior on Horseback, ca. 1511 – 1512”. シュテーデル美術館公式サイト. 2025年10月7日閲覧。
参考文献
- 黒江光彦 監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂、1994年、863頁。ISBN 978-4385154275。
外部リンク
- 布張り窓の聖母のページへのリンク