市長代理就任、米騒動
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1918年(大正7年)7月12日、千賀が急逝。臨時市会が開かれ、小瀧は市長代理に就任した。さて、その年富山県魚津町で発生した米騒動は岡崎市域にも波及する。8月13日、額田郡福岡町では町民が町長宅と米穀商を襲撃し、岡崎市では8月14日、岡崎公園に約1,000人の群衆が集まり電燈を破壊した。同日、市当局は小瀧を発起人代表者として岡崎市救済会を創立し、大量に買い入れた外米を廉売することを決定した。しかし翌8月15日も3,000人からなる群衆が岡崎公園に集まり米穀商を襲撃したため、警察署は在郷軍人を警戒に出すことを分会長たる小瀧に要請。小瀧はこれに対し、「軍人は一旦警備についた以上血を見ると退くことはできない。それでは国内の相剋を加うるもので、軍人会としては左様な仕事に当たる訳に行かぬ」と言って一蹴した。 同年11月、本多敏樹が第2代市長にようやく選任される。小瀧は市長代理を辞したのちも1928年(昭和3年)10月27日まで岡崎市助役を務めた。 1931年(昭和6年)12月8日、小野庄造市長が前年の市長選任にからむ疑獄事件(いわゆる花屋事件)の責任をとって辞職。ただちに助役であった堀内宗治が市長代理の職に就くも、次期市長の人選が始まったのは翌1932年(昭和7年)秋頃のことであった。堀内市長代理を市長に推す声もあったが、1933年(昭和8年)1月16日、岡崎民政倶楽部と岡崎民政青年団の支持により小瀧が選任された。1月25日、市長就任。 1935年(昭和10年)11月23日、任期を半分以上残していたが、突然辞任を表明。辞任の原因は民政倶楽部と民政青年団の対立によるものだと言われている。1936年(昭和11年)10月5日から1940年(昭和15年)10月4日まで岡崎市議を1期だけ務めた。 1951年(昭和26年)5月3日に藍綬褒章を受章するも、同年12月14日、死去。享年79。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。
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