市長代理就任、米騒動とは? わかりやすく解説

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市長代理就任、米騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:28 UTC 版)

小瀧喜七郎」の記事における「市長代理就任、米騒動」の解説

1918年大正7年7月12日千賀急逝臨時市会開かれ小瀧市長代理就任したさて、その年富山県魚津町発生した米騒動岡崎市域にも波及する8月13日額田郡福岡町では町民が町長宅と米穀商襲撃し岡崎市では8月14日岡崎公園に約1,000人の群衆集まり電燈破壊した同日、市当局小瀧発起人代表者として岡崎市救済会を創立し大量に買い入れた外米廉売することを決定した。しかし翌8月15日も3,000からなる群衆岡崎公園集まり米穀商襲撃したため、警察署在郷軍人警戒に出すことを分会長たる小瀧要請小瀧はこれに対し、「軍人は一旦警備についた以上血を見ると退くことはできない。それでは国内相剋加うるもので、軍人会としては左様仕事に当たる訳に行かぬと言って一蹴した同年11月本多敏樹第2代市長にようやく選任される小瀧市長代理辞したのちも1928年昭和3年10月27日まで岡崎市助役務めた1931年昭和6年12月8日小野庄造市長前年市長選任にからむ疑獄事件いわゆる花屋事件)の責任をとって辞職。ただちに助役であった堀内宗治市長代理の職に就くも、次期市長人選始まったのは翌1932年昭和7年秋頃のことであった堀内市長代理市長推す声もあったが、1933年昭和8年1月16日岡崎民政倶楽部岡崎民政青年団支持により小瀧選任された。1月25日市長就任1935年昭和10年11月23日任期半分以上残していたが、突然辞任表明辞任の原因民政倶楽部民政青年団対立よるものと言われている。1936年昭和11年10月5日から1940年昭和15年10月4日まで岡崎市議を1期だけ務めた1951年昭和26年5月3日藍綬褒章受章するも、同年12月14日死去享年791961年昭和36年7月1日岡崎市名誉市民推挙される。

※この「市長代理就任、米騒動」の解説は、「小瀧喜七郎」の解説の一部です。
「市長代理就任、米騒動」を含む「小瀧喜七郎」の記事については、「小瀧喜七郎」の概要を参照ください。

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