市長バードンの辞任
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「ヴェルトハイム」の記事における「市長バードンの辞任」の解説
国家社会主義の時代、1933年3月に長年市長の職にあったハンス・バードンが辞任した。その理由として、職務遂行不可能を証明する診断書が提出された。3度にわたって懲戒処分請求が失敗した後、ナチス党員はついに市長の交代に成功したのであった。バードンは辞任前の1931年の夏に神経虚脱の状態にあった。これはおそらくNSDAP所属の市議らによる過激な行動が原因と考えられている。このために彼は何度も執務を中断しなければならず、しかも事態は一向に改善しなかった。バードンは、国会議員選挙の際にハーケンクロイツの旗を掲げた場所での投票を要求するNSDAPの代表者と激しい論争を行った。この提案は、選挙の2日前の市議会で7対5で否決された。また、ヒトラーにヴェルトハイムの名誉市民号を贈るという要求は選挙後まで先送りにされた。1933年3月4日、市議会議員のシュスラー、メンツ、シュヴェーベル (NSDAP) は、市長のバードンに前日の議事運営について苦情を述べた。市議会での議決を無視して3月4日と5日に市庁舎に旗を掲げるようバードンは要求された。それは「安寧秩序」のために必要なことであり、さもなくば「好ましくない示威行為」がなされるだろうと脅迫されたのである。バードンはこの要求を拒否した。脅迫的な示威行為は行われなかった。だが、バーデンの統制(NSDAPによる独裁体制)によってNSDAPはヴェルトハイムでも権力を掌握したのであった。バードンは3月20日に辞任を申し入れ、3日後に市議会はこれを了承した。バードンには功労金や特別な手当は適用されず、4月1日付けの給与規定に従った給与だけを支払うとするNSDAPの提案は6対2(棄権1)で採択された。
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