市域の発展と築堤とは? わかりやすく解説

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市域の発展と築堤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)

川崎市の歴史」の記事における「市域の発展と築堤」の解説

宿駅伝馬制廃止1827年明治5年)の新橋横浜間の鉄道開通で、川崎町宿場町として役割終えて急に寂れたが、明治時代中期には、川崎大師への参詣客で再び活気取り戻した川崎停車場前には160台以上の人力車待機し参詣客運んでいた。1899年明治32年1月21日の「お大師様の日」に、六郷橋駅から川崎大師への門前まで大師電気鉄道開通し、「エレキで走る車」として話題になった明治30年代前半から川崎共立銀行など金融機関集まり1913年大正2年)には橘樹郡役所川崎町砂子移転し川崎町周辺地域流通拠点となってくる。川崎遊郭娼妓の数が最大になるのは1912年明治45年)で、324名にのぼった多摩川は度々水害起こしていた。明治40年43年大正2年水害は特にひどく、築堤を望む声が高まった1914年御幸村村会議員秋元四郎が、編笠かぶった一団率いて神奈川県庁陳情したアミガサ事件受けて新任有吉忠一県知事築堤工事開始し大正7年から15年をかけて、多摩川河口から久地までの間に堤防作られた。堤防工事によって、中原村丸子橋近く青木根、松原通り集落立ち退き命じられた。 また、水害起こすたびに多摩川流路変遷重ね、川の左右に飛地散在する状況となっていた。明治40年43年水害の後には、府県挟んだ飛地堤防整備障害となりうるという判断のもと、神奈川県東京府境界線多摩川上に引き直すという法案成立し1912年明治45年4月1日施行された。川崎市東京都境界はこの時のものが引き継がれているが、線引き変わった名残りとして、等々力宇奈根布田など多摩川両岸に同じ地名存在している。

※この「市域の発展と築堤」の解説は、「川崎市の歴史」の解説の一部です。
「市域の発展と築堤」を含む「川崎市の歴史」の記事については、「川崎市の歴史」の概要を参照ください。

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