市域の発展と築堤
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宿駅伝馬制の廃止と1827年(明治5年)の新橋ー横浜間の鉄道開通で、川崎町は宿場町としての役割を終えて急に寂れたが、明治時代中期には、川崎大師への参詣客で再び活気を取り戻した。川崎停車場の前には160台以上の人力車が待機し、参詣客を運んでいた。1899年(明治32年)1月21日の「お大師様の日」に、六郷橋駅から川崎大師への門前まで大師電気鉄道が開通し、「エレキで走る車」として話題になった。明治30年代前半から川崎共立銀行など金融機関が集まり、1913年(大正2年)には橘樹郡役所が川崎町砂子に移転し、川崎町は周辺地域の流通拠点となってくる。川崎遊郭の娼妓の数が最大になるのは1912年(明治45年)で、324名にのぼった。 多摩川は度々水害を起こしていた。明治40年、43年、大正2年の水害は特にひどく、築堤を望む声が高まった。1914年、御幸村の村会議員秋元喜四郎が、編笠をかぶった一団を率いて神奈川県庁に陳情したアミガサ事件を受けて、新任の有吉忠一県知事は築堤工事を開始し、大正7年から15年をかけて、多摩川河口から久地までの間に堤防が作られた。堤防工事によって、中原村丸子橋近くの青木根、松原通りの集落は立ち退きを命じられた。 また、水害を起こすたびに多摩川の流路は変遷を重ね、川の左右に飛地が散在する状況となっていた。明治40年、43年の水害の後には、府県を挟んだ飛地は堤防整備の障害となりうるという判断のもと、神奈川県と東京府の境界線を多摩川上に引き直すという法案が成立し、1912年(明治45年)4月1日に施行された。川崎市と東京都の境界はこの時のものが引き継がれているが、線引きが変わった名残りとして、等々力・宇奈根・布田など多摩川の両岸に同じ地名が存在している。
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