市内線市営化・会社解散へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:18 UTC 版)
「名古屋電気鉄道」の記事における「市内線市営化・会社解散へ」の解説
焼き討ち事件後も、運賃に関する議論は続いた。当時、東京・大阪・京都・横浜・神戸などほかの大都市の市内電車は均一運賃制を導入しており、名古屋でもこれに倣って均一運賃制を導入すべき、と要求された。そこで、名古屋電気鉄道は1920年3月に運賃を全線4銭均一に改正する申請書を市に提出した。均一運賃制の導入は市内線市営化に先行する課題であったため、このことは市営化への第一歩と社内外に受け取られた。 この時期に、重大な事件が発生した。1920年6月7日、主力の車両基地である那古野車庫が失火により全焼し、市内線車両の約半数を焼失してしまったのである。この事件によって市営化実現の動きが急激に加速し、7月13日に名古屋市会は市営促進の意見書を可決、7月17日には名古屋市長が市内線買収の要望書を名古屋電気鉄道に提出した。市営化実現の動きが活発化した理由には、前年に公布された道路法(旧道路法)により市に道路管理の権限がなくなり報償契約が無効となる恐れがあったこと、第一次世界大戦終了後の不況による株価の低落や会社の危機のため買収価格が安価になること、不況の影響で買収のための公債を発行するには好都合であったことなどが挙げられる。 名古屋電気鉄道としては収入のおよそ70%を占める市内線を手放すことに難色を示したが、最終的に郡部線に活路を見出すという結論を出し、買収に応じることになった。そして1921年10月に市との買収契約が成立し、市会で可決された。買収契約成立に先立つ1921年6月に名古屋電気鉄道は名古屋鉄道株式会社を設立、7月1日に同社に郡部線を譲渡した。この名古屋鉄道は名岐鉄道に名を変えた後、現在ある名古屋鉄道株式会社となった。 1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線の市営化が実行され、丸八の名古屋市章を付けた電車が市内を走り始めた。名古屋市に市内線を譲渡し、鉄道事業から手を引いた名古屋電気鉄道は臨時株主総会を開いて会社の解散を決議、28年の歴史に幕を下ろした。
※この「市内線市営化・会社解散へ」の解説は、「名古屋電気鉄道」の解説の一部です。
「市内線市営化・会社解散へ」を含む「名古屋電気鉄道」の記事については、「名古屋電気鉄道」の概要を参照ください。
- 市内線市営化会社解散へのページへのリンク