川越藩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:33 UTC 版)
「川越藩」も参照 後北条氏が小田原攻めで滅亡すると、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入府によって徳川家の領地となった。譜代大名の川越藩の基礎組織が成立する。川越は伊佐沼などの低地帯に囲まれ、冬には鶴や雁などの水鳥が多く降りてきたこと、また江戸からも近いことから、家康らが鷹狩りによく来ていた。- 江戸時代に入るとここに正式に川越藩が設置された。江戸幕府によって川越藩統治の組織が置かれた。川越藩の歴代藩主8家21人のうち、大老に酒井忠勝(大老格として柳沢吉保)が、老中に酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知、秋元凉朝、松平康英の6名(柳沢を含めると7名)の計8名が幕閣の要職についた。松平斉典の代には17万石となり川越藩最大の領域を有するようになり、「全国御城地繁花鑑」に前頭12枚目で掲載された。 1599年(慶長4年)には天海が喜多院に入寺、1611年に喜多院は家康から寺領300石と銀30枚を賜った。1614年には喜多院は徳川秀忠より関東天台の法度を受け、関東天台宗の総本山となり、寺領も500石に加増された。当時の喜多院は大きく荒廃していたため、川越藩主酒井重忠を造営総奉行に命じ、1617年(元和3年)には喜多院に東照宮が置かれ、1633年(寛永10年)には社殿が完成した。これらは寛永の川越大火で山門を除き焼失したが、、天海と堀田正盛の手によって復興され、多宝塔などが新たに作られるようになった。またこのとき中院が南に移設され、現在の東照宮がそこに作られた。 この頃になると、表記が「河越」から「川越」へと変わっていった。
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