川越藩仕官
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弘化5年(1848年)2月、平兵衛は川越藩に一代限りの徒士として13石4人扶持で召し抱えられた。ただし、この仕官は平兵衛の剣術の腕が理由ではなかった。平兵衛自身も当初は川越藩に仕官するつもりはなかったが、川越藩の剣術を実用的な内容に変革する目的で仕官したという。 仕官に伴い、藩士への神道無念流剣術の指導も認められたが、神道無念流の扱いは藩から制度的・経済的な支援がない「内稽古」にとどまった。これは、松平家藩政期の川越藩では武術流派が身分制度と連動しており、上・中級藩士が入門する「表稽古」と呼ばれる公式に認められた武術流派と、下級藩士・足軽が入門する「内稽古」と呼ばれる非公式な武術流派とに分かれていた。そのため、同じ武術を複数の流派を学ぶことや他流試合も禁じられており、藩内では平兵衛の神道無念流のみ竹刀と防具を用いる打込稽古を行っていた。 平兵衛は仕官後、下級藩士・足軽に神道無念流を指導し、嘉永2年(1849年)閏4月には道場も設け門人も増えていった。同月に平兵衛は、費用は自弁で藩外へ定期的に剣術修行に出ることの許可を申し出、許可された。藩士が藩外に定期的に剣術修行に出ることは川越藩では初めてのことであった。藩は平兵衛に農民や町人との試合は禁じていたが、平兵衛はこれを守らず、村落の道場でも試合をしている。また、藩外からの剣術修行者を受け入れて他流試合を門人らにも行わせていたが、川越藩の受け入れ手続きが時間がかかるため、手続きの簡略化を求めたが、これは却下された。藩外からの受け入れ手続きの簡略化が実現するのは、文久2年(1862年)12月になってからであった。 安政2年(1855年)8月、平兵衛は川越藩を辞めることを申し出たが、藩は平兵衛を一代限りから代々仕える「御譜代」に待遇を変えて引き留めた。
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