局中法度・粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:38 UTC 版)
烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。 法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。 一、士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない)一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)一、勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない)一、勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない)一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない)右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする) 子母沢寛が昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八が大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。 鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他はほとんどが切腹や暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった。
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