小笠原諸島実況
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「太田實 (実業家)」の記事における「小笠原諸島実況」の解説
1876年(明治9年)3月、小笠原島の日本統治が各国に通告された。それに伴い小笠原諸島は内務省の直轄とされ、出張所を新設することになった。これを聞き及んで、實はその建築工事の請負を申請し許可を得た。それで大工および人夫4~50人を募り、木材を調達し役人に従い定期船「社寮丸」で横浜を発った。父島の二見港に入港し、直ちに木材を筏に組み、翌日に荷揚げせんとし、夜筏上に座して夜明けを待っていたところ、たまたま風波が俄かに起こり、ついに木材の過半を流失してしまった。僅かに残材を集めて陸に揚げ、建築を始めたが材木欠乏のため前もって期待していたとおりにはいかず、事業を他人に譲って自己は出張所の雇員となった。父島から距離28海里のところには母島があり、そこにドイツ人ロルフス(ロース)なる一家が移住しており帰化を希望していた。手漕ぎの小船で、荒波を乗り越え母島に渡った。ロースは喜び大いに歓待した。實は数十日間そこに留まり、諸群島を巡遊した。その際多くの鯨を見た。そしてロースがその利益が大だと云うのを聞き、小笠原群島は耕耘牧畜の地ではなく、その利益は漁業にあることを悟る。帰京後、漁鯨(捕鯨)のことを遊説したが、人は皆、新しがり屋のすることだと言い、誰も応じなかった。 しかし、この見聞が實が生涯を通して、水産業殖産(大日本水産会幹事、水産伝習所創立監事、浅草公園水族館の設立など)に力を注いでいく源となったと言える。 翌12年3月13日「豊島丸」にて帰京し、小笠原諸島での見聞を『東京日日新聞』に4月9日から25日までに10回にわたり「小笠原島実況」として寄稿した。当年20歳であった。
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